066 地道さと幸運
過去の僕の横で――過去のダイアンさんの腕の中で――付与ブックを前に、首をあまりにも曲げた状態から自然な状態に戻してから、しばらくは鳴きもせずに考えた。
――もしかしたらリセットされるかもしれない……今の状態が標準みたいになるかもしれない……けど、リセットされなくても……発動できれば『こちらの意志で』姿を交換できるかも……?
でもどうやって同じページを運よく開けばいいのか。何ページもあるという話だったような……
自分がまだ専心礎術を覚えていない、それで覚えられれば……という手も場合によってはいいが、それは確実ではない。ともなれば、永遠と続きそうだと思ってしまうほどの時間を浪費し続けるだけの可能性がある……しかもこの体のままで。そんなのは地獄だ。しかもタイムリミットはあるのだし。
――やっぱり付与セットでできるか試すのが先だ。
抱きかかえられたまま過去の自分を見送った。
フジバネクロゲネコの姿の僕とふたりだけになったダイアンさんは、何やら考えたようだった。
多分、ドナが探せるものなら探したいと願った『自分を助ける存在』があの僕であることを知って、できれば少しでも助力できればと、望んでやったついさっきの付与なんかがちゃんと実を結ぶだろうかと、心配になっているところ……かもしれない。何せこの時の僕は何も知らなかったし何もできなかった。
振った手を降ろして数秒経ってから、ダイアンさんの声。
「まさか地球にいるとはな。これも運命の導き、か?」
そんなダイアンさんが目の前に丸い鏡を出現させた。それが映すのは……お世話になった記憶からすると、ゼフロメイカ家のダイアンさんの部屋のようだった。
そこへ行ってから眠気が復活した。緊張の糸がふっつりと切れたみたいで……
――んあッ? どこだここ。
いつの間にか、スピルウッド州庁舎のあの動物部屋に戻されていた。近くに小さな白い猫の先輩もいる。
そこで僕はひとまず、一つの結論を出した。
――ダイアンさんにだけでも僕がユズトだと気付いてもらう、それが今の最優先事項……!
明くる日も戸を動かし走り回った。
州庁舎というだけあってそこで働く人ばかりがいる。各階、色んな課があり住民をサポートする。何かの手続きなどもするそんな場所に、受付だけでなく文具店やちょっとした図書室も入っていて、そこも活用できた。
紙とペンの在り処を目指し、日々走り、捕まった。
もがいて抜け出してもすぐに持ち上げられてしまうし、
「こら、ダメだってば」
そればっかりだ。
いつになれば気付いてもらえるのか。ただただ色んなものに興味があるだけのフジバネクロゲネコになり下がっている。
そしてついにペン立てを隠されてしまった。そうできない場所では高い所に置かれた。それだけでも辛いのに。もう絶望だ。
――このままじゃ駄目だ、駄目なんだ! 気付いてもらわないとみんなも危ない!
それからも走った。捕まえられてしまうが、それでも負けじと――
何週間も経ち、だいたい体の扱いにも慣れてきた。
もう自分の礎術を使えるのではないかと、数回試してみた。が、使えなかった。レイシーに注入された薬が効いている? あれはいつ切れるのか――
きっといつか使えるようになる。
きっと……
そう信じないと、フジバネクロゲネコとしての生活などやっていられなかった。そして礎術を使えれば、ダイアンさんに気付いてもらえる可能性はグンと増える。
期待を常に持とうと決めた。
そしてそれからも走った、紙とペンを目指して。
何日繰り返したのか。もう数えてもいない。
横線を書くとこまでは行けた日もあった。だがその日もペンを取り上げられ、
「もう、ダメだってばー」
と叱られるだけ。
ある日、ダイアンさんの前で書き始めることができた。たまたまというより、何度も試行錯誤したからだと思う。
――やっと! ねえダイアンさん! 気付いて!
『ボクはユズト』の最初の『ボ』の一画目、横棒をまず書こうとした、いつも通り。するとダイアンさんにガシッと掴まれて。
「なあギーロ、なんでこんな事ばっかりするんだ?……こういうのが好きなのか? 何か描きたいのか?……紙とペン、用意するかなあ……」
予想外な出来事に、今までにないくらいの感動を覚えた。
――やった! やっとだ! やったあああ! このことを伝えられる! やっと!
「……執務室に連れて行って様子を見たいんだが……あの部屋に誰かが行った時のために、今執務室にいるって書いておいてくれないか」
「はい、解りました」
そんなこんなで執務室へと抱えて入れられた。
三階奥のまあまあ広い部屋。
前にも来たのはここかな……とは思ったが、そんなことより。
「ほらギーロ、ペンと紙。自由に描いてごらん」
――いいぞチャンスが巡ってきた!
革の椅子の前のテーブルは書類仕事にダイアンさんが使うはずで、それよりも前にある応接用のテーブル……その上にダイアンさんはペンと紙を置いた。
――よし、これで……!
『ボクはユズト』の最初の『ボ』を書いた。途中、線が曲がったり途切れたりしたが、やむなし。
――はぁ、はぁ……会心の出来だ……!
これでどうだ! とダイアンさんの方を見た。
彼は、書類に目を通していてこちらを見ていない。
――ダイアンさん……見てよ……ダイアンさんが頼りなんだよ……
僕はこのままなのか? 気付いてもらえなければ、ずっと?――そう思うと、シュンとしてしまう。
十秒ぐらいが経ってから、声がした。
「お、ギーロ、どうだ、何が描けたんだ~?」
覗き込んできたダイアンさんが応接用のテーブルを覗き込んだその時、顔色が変わったのが解った。
「カタカナの『ボ』だと……? そんな……。そこまでの知識が――理解力が――ただの使術動物にあるはずが! お、お前は……どういう存在なんだ? 元は人……? 礎術でありえなくはない……のか……」
――続きを書くから見て!
ダイアンさんは僕が絵を描くと思っていたかもしれない、そのくらい予想外なものを見たという顔ではあったが、それじゃ足りない、まだだ、僕がユズトだと気付かれないと……それまでにどこかに連れて行かれてしまったら意味がない!
とにかく書いた。必死に口にペンを加えて、それで白い紙に――
『ボケはユズ十』
別の字に見える部分が少しだけあるが、それでもうまくやれたはずだ。
「ぼけはゆずじゅう……?」ダイアンさんが言った。「どういうことだ……。何を伝えたい? ボケの面白さを果汁で譬えたのか? 明らかに知性がある……それを言いたいのか?」
――違う! そうじゃ……
「いや」
その時だ、ダイアンさんの顔は驚きと戸惑いにみるみる満たされていったようだった。ただ……一旦、理解に苦しむような顔をした。
「いやそんなワケが」
――いや多分そうなんだよ! 気付いたんでしょ!
跳ねるようにして前足で強くテーブルを叩いた。鼻息もふんふんと荒くなる。
「どういうことだ……今のユズトが偽者……?」
――いや違う! そうじゃなくて!
またペンを咥えた。文字を付け足す。
翼をバタつかせながら僕がせっせと縦書きで書いていくのを、ダイアンさんはじぃっと見ていた。
足した結果、全文はこうなった。
『ボケはユズ十、末十米か5キタ』
かなり時間が掛かってしまった。漢字やひらがなの『ら』が難しい。――カタカナにすればよかった。
ふう、ふう……と息を整えていると、ダイアンさんの声が聞こえてきた。
「『ボクはユズト、マツジュウマイか5キタ』……? マツジュウマイか……? うん……? あ、マツライか! いや未来か! そうか!『未来からキタ』か! なるほど、じゃあどっちも本物……だとするとどうしてこんな」
僕はまた文字を書いた。
『ソTシーにカテV◇』
「……? ソティーシーに勝て……? ソイシー? レイシーに勝て、か? いや、違うな、もう捕まえたし……」
それくらいの日数が過ぎているのはもう解っていた、僕も驚かない。
「レイシーにカテレ……? レイシーにカラレ……? そうか!『レイシーにヤラレタ』か! それにしても……礎術は使えるのか? いや使えなさそうか……だからこうして書いて気付いてもらおうと……。ということはテレパシーも無理か……?」
ダイアンさんが眉間にしわを寄せた。
『聞こえてるか? 聞こえてるなら、念話してみてくれ、ドナには付与し直す』
僕は必死に念じた。
「………………聞こえない。やっぱり無理か……。そうか、リンクゲートや狙撃手袋なら使える程度の状態ということか、かなり危険な状態だな……」
ダイアンさんは肩を落とした。
僕はいつ礎術を使えるようになるのか。それともレイシーが注入した薬のせいでもう無理なのか?――最悪だ。
しょんぼりしつつも考えた。
――それでも事態は進展してる、前を見るべきだ、そうだよな。
自分に言い聞かせていると、ダイアンさんが僕を抱きかかえた。
執務用のテーブルに僕を乗せると、すぐそこのパソコンを立ち上げ、ダイアンさんがそれを操作し始めた。
そして近くのプリンターが作動して、何かが印刷された紙が出てきた。
「どうしたらいいかを……今後はその表で示してもらって会話をする」
その表とやらが僕の前に置かれた。五十音の表だった。
直後、ダイアンさんはプリンターの用紙入れから紙を取った。ペン立てからペンも。
「それと、思ったんだが……ユズトはレイシーを捕まえたいだけなんだろ? 仲間も犠牲にはしたくない――」
僕がコクリと首を動かすと。
「何かを切っ掛けにこの状態でも礎術を使えるようになる――そう期待して待つしかない、か……? ユズトは不安だよな、このままだと。ふぅぅむ……で、まずどうすべきなんだ? 未来に帰る方法には困っているとは思うが……あ、その前に、何年後のユズトだ? それとも数か月後か?」
言われ、文字を示した。紙の中央手前に立ち、右手だけで――ゆっくりと――認識する間を持たせるようにして。
「い……ち……」
ダイアンさんは僕の示した字をメモしていく。
「『一年後くらい』……か、そこまで気にしなくてもよさそうだが、すぐに戻れるとしたら、そうしたいんだよな?」
それはもう……という勢いで、強く肯いた。
「ふむ。じゃあ……あとは、この姿になっているのはレイシーの仕業なんだよな? その効果を消すか、どうにかして自分の姿を取り戻したい訳だ、どうやってそれを実現するか……」
こちらが、『見て、見て』とジェスチャーをすると、「ん?」と気付いてもらえた。
「その手立てがあるのか?」
注目しているようだから、また表に手を順繰りと……ゆっくりと置いていった。
「ふ……よ……」
またダイアンさんがそれをメモ。そして――
「『付与ブックを僕に使った時に見た、礎術を奪う礎術』……? なるほど……。そうか、付与しなければいけないのか……店を探す必要があるな……」
ダイアンさんがまたパソコンを操作した。その画面を僕も見てみた。
画面には『礎術道具協会本部』とあった。そのサイトの『在庫リスト』が今スクロールされている。
「ああ、これは何かと言うと……まず、ええっとだな……全世界の礎術道具販売店では、礎術道具協会本部へ在庫変化の報告をするのが義務なんだ。まあそれを怠ってる店もあるが」
ふむふむ、それで? と思ったが、首を傾げると説明を止めてしまうかなとも思った。だから頷くだけにした。するとダイアンさんが続けた。
「普通はこれを見ることができない、今見られるのはその権限がある私が特殊なコードを入力して開いたからだ。調査の参考にもなるが……これでまず付与セットを見てみよう」
僕も画面を見詰めた。




