024 ジリアン
雲で空が覆われていて、まだ明るい時間で……白い雨が降っている。窓の外にあるその景色を、背もたれにあごを載せるみたいにして椅子に座って、眺めていた。
――あの時もこんな感じだったっけ。
私はジオガードになりたいと思うよりも前に、職に関係なく、まず人を救ってみたいと思っていた。
そうして褒め称えられたらきっと照れてしまう、注目されるのは苦手だけれど、それでも傷なんかを早く消して回復させてあげたいとよく思っていた。まあそれは、今も思ってはいる。
この早送りの礎術で私にできることは、表面的な治癒の加速のほかにもある。腐食や燃焼、車の走行、気化などの早送り。そこまで複雑ではない現象であれば可能。
中でも治癒にこだわるのは、やっぱり『あの頃』のことが原因だ。
「なあ姉ちゃん」
「ん? 何?」
私の部屋は二階で、この部屋のドアは開きっぱなしで……その枠に背を預けた弟からの声だった。
「ジオガードになりたいからって、誘いに乗って人に会いに行ったんだって?」
「うん、そうよ。……で、それが?」
「躍起になってるというか、あれをまだ気にしてるのかなって」
「そうじゃないよ」
「でも――」
「気にはしてない」
「そう? ならいいけどさ。思い詰めてるように見えたから。無理すんなよ」
弟は、頑丈なドア枠に背を預けるのをやめてこの部屋から離れていった。
「大丈夫、ありがとね」
言ってから、階段を下りていく静かな足音を聞いた。
二階のまあまあ広い私の部屋の窓から見える曇り空が、『あの頃』を思い出させる。
「気にはしてないよ、本当に。ただ、切っ掛けだったってだけ」
誰にという訳でもなく、そう言ってから、考えた。――ほかに力を得たいなら、どんな礎術がいいか……
――あの日から、もう何年経ったっけ。八年くらいか…
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誰かの傷を治したい状況で格闘を強いられることもある。警察やジオガードがそうだし、乱暴な人が運ばれた病院なんかもそう。
そんな所で仕切ることができたらどんなに凄いか。
達人に対する単純な敬意もあって、レジリア礎術大会には興味があった。よくそこへ観戦しに行った。
そしてその日も。
「姉ちゃん、一人でずるいよ」
「え、ルオ、あんたついて来てたの?」
この頃、弟のルオは十歳にも満たなかった。
「はぁ……仕方ないなぁ、次からは二人で?」
「やった!」
「あのねぇ、解ってんの? ルオ、自分で払うのよ、今お金ある? チケット一枚、二千リギーよ」
「えっ、俺、お小遣い、そんなに溜めてない」
「じゃあダメね、今日は帰って。これは私のなの。私は一枚しか持ってないの」
「ちぇーっ。俺も見たかったのにぃ、姉ちゃんみたいに!」
「ちゃんと払わないとダメなのよ、残念だけどこれは譲れない。……自分で溜めるのよ、いい?」
その日はルオもしょんぼりとして帰っていった。
それから数か月が経ち、次のレジリア礎術大会が開催。
そして本戦の一回戦当日。
「今日はルオもちゃんと見れるのね」
「俺はえらいからね」
二人でドームに入って観覧席に。大きな男の人や女の人に挟まれて姉弟で並んで座る。好みの選手を応援した。
試合はやっぱり乱暴で危なっかしい。どんな負傷をすることがあるのか、どんな危険があるか、それを学ぶことになったのかもしれない。
このドームの見どころは観戦だけではない。ドーム内の店で買った飲食物なら持ち込める。他人に迷惑を掛けないレベルでなら飲み食いしながら観ていい。ルオと私はスナック菓子とペットボトルのジュースを買っていた。
応援タイムを楽しみ、ハラハラもしながら、戦うとはどういうことか――ということも考えさせられた。
ある試合で、とある男性が苦戦していた。
私に彼の力があったらどう動くか、とよく考えた。
その選手は、もう武器がないと見せ、相手を油断させると、ルオの手元にある缶を引き寄せ、リングと客を隔てる透明な壁に当たったその缶を、リング上に瞬間移動させてそれを操作対象として戦った。そしてその選手、缶使いが勝ちをもぎ取った。
――とっさの判断の通りに実現できるなんて、本当に凄い。
そう思うと同時に、このドームでのマナーの問題も気になった。
あの缶はルオのものではなかった。
ルオの右隣には男性がいて、その人が口元に運んでいたのを私は見た。きちんと持ち帰ってほしい、そういう類の問題。
何試合も観戦して、そして退場の時間が来た。
「さ、帰ろう」
ドームを出た。入場口から。そして身震いした。
「ちょっとお花摘みに――」
「お花? どこ?」
「トイレのことよ、知っときなさい」
「はぁい……あ、じゃあ俺も」
当然、男女別にトイレへ。
そして戻ってくると……人だかりができていた。ルオはどこ――と、辺りに目をやった。でも見付からなかった。
私が探しやすい場所にでもいるのかと、辺りを見て回った。
――どこ? どこなのルオ。
だんだん不安になっていった。
人だかりの向こうが気になった私は「すみません」と言いながら掻き分け、入っていった。
人だかりは輪のようになっていた。その最前列で見たのは、血の上に横たわるルオだった。
駆け寄り、ルオの状態を見た。お腹を刺されたようだった。
真っ赤で……小雨の中動かない。
深いところまで傷がある。
――これじゃ私には治せない……! 誰か。誰か――
いつの間にか叫んでいた。喚き散らすみたいに大声で。
そんな私に、近くにいた男性が言った。
「大丈夫、助かるよ、助けももう呼んだから」
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――あの言葉通り、ルオは助かった。何の後遺症もなくてよかったけど。あの言葉を聞いた時、最初は――『そんな言葉を掛けられても心配な気持ちは消えないでしょ』なんて、その親切になぜか怒りたくなったっけ。
そしてあの時、もし、ちょっとでも何かが違っていたら。
――もっと何かできたんじゃないかって、今でも思う……
だからこそ、私は今、強さがほしい。
できることも増やしたい。あの時できなかったことをできるように。守れなかったことより、守れたことをいっぱい思い出せるように……これから積み重ねていきたい、そのために……
このことを、思い詰めるほどに気にしている訳ではない。
ただ想いが強くなった切っ掛けなだけ。今でもそう思う。
犯人が憎い。既に捕まったけど。ある男の一生の賭けをルオが左右したと、その男が勘違いした、それゆえの事件だったとは新聞を見て知った。
心の傷は複雑で癒せるかと言えば難しいけれど、人の表面的な傷だけなら癒せる――そんな私が、もしこんな事件を減らせるなら――
そう思ったからこそジオガードを目指した。
――うん。これは切っ掛けなだけ。それで今は……ユズトやベレスたちに見合う自分になりたい。前向きなだけよ、これは。思い詰めてなんかない。
想いを胸にたぎらせて、私は必死に念じた。何度も念じた。
明くる日も。
……そして。
ある日、呼び鈴が鳴り、私の名が呼ばれた。
玄関まで行く。そこで初めて、家に来たのがレケとケナだと知った。
あの白い箱を受け取って、私はますます引き離された感覚に陥った。
――違う。ユズトは悪く言わない。私に念動の礎術がなくてもいい――狙撃手袋を使うのでもいい――って言ってくれた。私は見合う自分になりたいだけ。なれたらよりいいって、そう思ってるだけ。
必死に念じた。自分の部屋で、自分が得意にしたいものはここにあると願って、何度も念じた。
ある時、母からお使いを頼まれた。それは仕事場からでは今日は遅くなるという理由からかもしれないし、私が気分転換できればと慮ってのことかもしれなかった。どうしてかは聞かなかったけれど。
「ん、じゃあそれを買って来ればいいのね」
鏡の前に座って自分の顔を見ると、目の下に隈ができているのが解った。
メイクをし始めるとその隈の濃さがよく解る。十分に隈を消してから、口紅を塗ろうとしていく。
ふと、手が止まった。どうしてか動かす気持ちになれなくて――そして思った。
――みんなはどんどん特訓していて、私だけ、何を……
そこで、私の中で何かが切れた。手に持っていたリップスティックを、床に叩き付けるように投げてしまった。自分を情けないと感じてしまう。
――私には遺伝した礎術しかないの? ほかに何の才能もないの……?
折角したメイクが崩れていく。
鏡を見てそう気付いても、それを止められやしない。
つい、机を強く叩いてしまった。
――私、大きな態度を取ってた。なのに。横に並ぶこともできないの?……違う。私だってやるの。やれる。そう信じてた。これからも信じる! あの人たちと共に歩んだって胸を張って言えるようになれる! 私は――! だってこれができれば、ユズトの『あの方法』で急成長だってできそうなんだから! やれさえすれば! みんなと……色んな人を救う、解決する、そういう人に、絶対なる……!
強く思っていると、やんわり開かれた手のひらに、何かが乗ったのが解った。
今私に必要なもの。
喜びに満ちた私は、涙目のまま、それを唇に当てた。
淡い赤に染まる。これが私の、決意と力の象徴。たった今そうなった。
だから私は、ひとまず涙を拭き、財布を持って部屋を出た。多分、自信のついた顔だったんだろう――……だろうと思ったのは、もう鏡を見なかったからだ。
その日の夜にはトレーニングボックスに入り、猛特訓を始めた。
そして一週間後。制限時間を超えると箱から強制的に出されたようで、自分の部屋の中央に急に立つことになった――それから後ろを見ると、箱が淡く白い礎力の塊となって霧散するのが見えた。
もう私はついて行ける。
実感の中で旅立った。
そしてゼフロメイカ家の玄関にて待つと。
「庭にいますよ」
と、アデルという人に案内されて――
「あ、ジリアン。ジリアンもやる?」
「うん」
ユズトたちは各々の操作対象による射撃訓練をしていた。前にも見たやつだ。ただ、的が八つほど増えてはいた。
彼らは相変わらず前に進んでいる。
「くあぁ、五発くらい外した」
レケが走りながら絞り袋を放ったあとで悔しがった。
的の中心からは確かに外れているけれど、そのうち数発は、的の描かれた紙に当たっていない訳でもない。
「見て、見て」
ケナの声。そちらを見ると、ケナが浮いた白い板の上に乗っていた。
「えへへ、空中浮遊~」
ケナはよく笑うようになった。
「おー、凄い。じゃあ私も、新しい力を紹介しておこうかな」
「え、新しい力? 見たい!」
ケナが浮遊消しゴムを消して草地に降り立った。見事な着地。
そこへ、レケもユズトも来た。ベレスは一旦集中していた射撃訓練を終えてからこちらへ。
私は左手をジャケットのポケットに当てた。そして念じた。
ポケット内にあったものが、右手の上に瞬間的に移動。
「おおー! 何これ口紅?」
「そう。これをこう操ることもできるし――」
と、サイコキネシスを披露してから、それをポケットに戻した。
そして念じた。口紅よ、出現して、と。
今操っている口紅は、念じるのをやめると物体としての存在ですらなくなる。最近見た鏡のゲートなんかと同じ現出タイプの派生技。それによる口紅を、そこら辺の草に塗った。芝のほんの一部が淡い紫に染まる。
そして念じると――
バズンッ――!
激しい音を立てて稲妻が走った。
私が操っているリップスティックからさらけ出された中身の口紅――そこから、塗られた部分へと強烈な電気が走った……これはそういう現象。
「おおっ? 凄いな、これ、かなりの力じゃないか?」レケが言った。
「えへ。だといいな。ところで、みんなはほかにどんなコトができるの?」
と私が聞くと。まずはケナが。
「あたしは動かす物の重さを重くするのと、消しゴム! 数時間前の状態に戻せるよ」
「俺は絞り袋からクリームを出せるようになった」
「え、食べれるのッ?」
つい聞いてしまう。返事に期待してしまう。
「ああ、食えるぞ」
驚いたわ、これなら非常食に困らないわね。
フッと笑みがこぼれたのが自分でも解った。
そんな時だ。ユズトの声。
「僕はビーズの色ごとに少しだけ派生技を増やせたよ。というかこういうの、簡単に確認する方法ってないんかな。実は派生技習得できてるけど気付けてない……なんてこともない方がいいし」
私は驚いて声に出した。
「ユズトは本当に目の付け所がいいね」
「え、そうなの?」
「うん。気付けていない場合についての懸念って、もう随分昔の問題だったけど、自分でそれに気付いてるし、確認できそうだから言ったんでしょ? その発想も同時にあるのが凄いし」
「それなら」というのはベレスの声だった。
ベレスは射撃訓練をやめて私たちの所へ来て早々提案を始めた。
「今いるこのシミーズ市の市役所には、礎術診断椅子という礎術道具が設置されています。その道具で見てみるといいですよ、どんな力があるか、遺伝する可能性があるかを診断、判定することができますので。そこで確認すると言葉要らずですし分類もよく解ります」
「面白そう、全員診断を受けてみようか」
ユズトが、何にでも興味を持っているみたいにそう言った。
今の私からしたら可愛い弟。でも、頼りになる男でもある。
――何だかずるいなぁ。
この『ずるい』という言葉が出て感じるものがあった。要は、私も少し前の『何も不安に思っていない私』に戻って明るく振る舞いたいと思っている――そういう気持ちの表れなんだろう、これは。最近思うことが多かったから。
「よし、じゃあ早速行こうよ!」
私は声を上げた。胸の奥から本気の声が出た。そう感じた。




