1 for whom(誰がために)――立川
――なんだ、これは。
私はその光景が信じられず茫然としていた――。
沈泥した意識は視界を覆う自然光、そして鼻腔を指す匂いによって急速に引き揚げられた。
良くある目覚め。
変わったことはない。
いつものように悪夢に魘され、苦しみの中から意識を取り戻し、目を開き、辺りを見回しただけである。
だが――。
目の前の現実は私の知る現実ではない。
薄汚れた闇市の片隅でもなければ、空襲に朽ちた廃ビルでもない。
ツンと漂う医薬品の臭い。
窓から射しこむ柔らかな日差し。
だるまストーブだけが人間味のある黒を帯びる。
目も眩むような白亜の部屋。
小綺麗なタンスや椅子、机、カーテン、その他の調度品は、清潔な白色に統一されている。
紛うことなき病室。
無論、全く知らない場所である。
意識を取り戻したら全く知らない場所にいたというのは、古今東西変わらぬ真理、酒に呑まれた人間の末路であろうか――?
襲い来る不安と罪悪感に口元を押さえて俄に嘔吐いた。
夢か現か頬を叩くが、――やはり痛い。
ついでに顎をなぞると、あれだけぼうぼうに生えていた無精髭が綺麗さっぱりなくなっている。虱がいたはずの不快で不潔なぼさぼさ頭も、ほどよい長さに切り揃えられ清潔な触り心地である。羽化登仙――とは全然言えぬ。惑乱する頭を掻いていると、俄にドアがノックされた。
「オヤ――、やっとお目覚めですか」
――あの米兵だ。
日の光で見る印象がだいぶ違うが、声や体格、顔もまさしく当人だ。
金色の短髪。鼻筋が綺麗に通っている、銀幕の映画俳優のような顔立ちである。口角はやや下がり気味で、若いながらも苦労を重ねつつある立場にいるように見受けられた。
碧眼に悪意は微塵も感じられず――、気さくな笑顔を向けるこの米兵を言葉も発さず訝しげに見つめた。米兵は机の上に置かれていたガラスの水差しを手に取り、コップへ注いだ。
「いきなりで申し訳ありませんでしたネ。二日前のあの状況で長々と説明するのは大変だと思いましテ」
二日前――、私はだいぶ眠っていたらしい。
米兵は右手にコップを、左手には夜寒に輝いた、あのロザリオを翳した。
「このロザリオを持って念じるとですネ、相手の人の過去を見ることがデキるんです。大陸では大変な目に遭いましたネ、卜部武季さん」
さもありなん――、とはいかない。
目をヒン剥いて驚いた。
「そんな――、そんなことが出来る訳」
「貴方が見たのは、眼、ですね?」
刹那。
脳裏を、背筋を、頭皮を、体中のあらゆる組織を激烈な悪寒が駆け抜ける。
――あぁ、そうだ。
それを知っているのは私しかいない。見た人間は誰も残っていない。私しか、私しか見ていないのだ!
「信用しろと言うのは大変難しいことです。それは分かっています。でも分かってくだサイ。私達には貴方への敵意はナイのです」
優しい声色。純真な瞳。その全てに「偽りの意志」は微塵も窺えない。
それに話をしていて自分が今どういう状況に置かれているか――およそ見当が付いた。
「……私をどうするつもりだ?」
「――お願い、と言っても額面通りには受け取れませんよネ。それは当然です。ですから、まずは自己紹介から始めましょう。名を名乗らぬ輩は信用出来ませんからネェ」
突然の口調の変化に当惑したが、米兵は流暢に名乗り始めた。
「――ヤァヤァ、遠からん者は音にも聞ケ、近くば寄って目にも見ヨ――。我こそはペンシルヴェニア州ハリスバーグのデービッド。脂ののった二十五歳、デービッド・ミラー少尉なるゾ」
そう言って――、気恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……戦争前ですが日本に留学してたこともあったのデ、日本語は少々出来ますヨ」
白い歯を覗かせた屈託のない笑顔。
苦笑いするしかない。過去の悪寒も、警戒も、何処までも調子の外れた自己紹介にどうでも良くなってしまった。そういう手合いだとするならば、中々大した度胸である。
「……分かったよ、少尉。貴方の日本語は大したものだ。そんな古風な『名乗り』が出来る米国人は生まれて初めて見た。君は既に知っているだろうが、私も自己紹介をしよう」
――私の名。
卜部武季。
二十四歳。両国生まれ、東京府内の中学校を卒業後、某商社にていわゆる『サラリーマン』として働いていたが、徴兵されて大陸に行っていた。
所属は――。
「第三師団ですネ?」
そこまで把握されている。
――いや、見たのか?
「そうだ。名古屋の3Dだ。昭和十八年から去年の暮れまで、私は大陸にいた」
そこで――、アレを見たのだ。
「ソレは、――何か分かりますか」
「……分からない」
思い出そうとすれば途端に背筋が寒くなり、悪寒が走る。
――いや、分かっている、眼なのだ。
だが、それが一体何であるか全く見当が付かない怪奇現象。思い出すと自然と、うぅ――、と声が漏れ蹲ってしまう。
「……ご無理は為さらず、今は答えなくても結構ですヨ。でも、貴方はそれ以来感じるようになった。――怪異ヲ」
蒼い暗闇、黄色い閃光、有象無象の邪気。
それは奴らが発するもの。
眼を貫き、耳を劈き、肌を引っ掻く、澱み。或いは人ならざる不快な現象。――その全て。
「あぁそうだ。最初はほとんど感じなかった。だが上海から復員船で帰国するあたりから、おかしなモノが見え始めた」
人の言うところの幽霊やお化けではなかった。
形状不明。されど色は映え、不快な雰囲気を漂わせ、時あれば私を掴み傷つける。空間が皺み残像が連なり、穿ち、突き刺す――。昼や人混みだとほとんど感じないが、夜は常ながらその存在を感じた。
「ただの靄じゃない。私を掴もうとしてくるんだ」
「怪異が貴方を取り込もうとシテいる――」
まさしくそういう具合だった。
「だから、見えたら全力で逃げ、極力明るいところか人の近くで寝ることにしたんだ」
――それでも限界がある。
いつまでも傷痍軍人のフリは出来ない。日銭がなければ生きていけぬ。働かなければならなかったが、肉体労働だろうが子どもの使いだろうが、この怪異がある限り定職など望むべくもない。
夜が訪れると精神は魘され傷つけられる。
悪夢も散々に見る。人も金もなく、ただ僅かな日銭でヤミ市のマーケットで糊口をしのぐ日々だった。
「……分かります。私も母国や欧州で、色々なモノを見てマシた、貴方の苦労はよく分かりマス」
「――信じてくれるんだな、今の話を」
「勿論デス!」
屈託のない笑顔――。
口から出任せではあるまい。ロザリオの能力もしかり、デービッドも幾分か人智を超えた所にいるのだろう。故に孤独からの解放感に自然と安堵の溜め息が漏れた。
「ありがとうデービッド少尉。それで、――お願い、とはどんな事なんだ?」
デービッドの顔は憑き物が落ちたように澄み、俄に視線を外すと天上を見上げ呼吸を整えた。
「貴方の衣食住を我々が保障しましょう。日々の怪異現象から身を守る、場所や道具も提供します。その代わり、怪異と闘って欲しいのデス」
――怪異と、闘う?
意味が理解出来ない。
あの目に見えない、――いや、見えづらい、空気のような邪気とどう闘うのだ?
自然と強張る眉が視界を狭め、口から潺々と思ったことが流れ出した。
「うーん、そのままの意味で捉えてください。我々は怪異と闘う存在ですカラ。怪異が見えた、怪異を感じることが出来る貴方も、我々と一緒に闘って欲しいのデス」
さすがに疑義を挟まずにはいられなかった。
「ちょっと待ってくれ。米軍が怪異と戦う存在、なのか?」
――高高度を飛ぶ爆撃機。
――原子爆弾。
大量の戦艦と空母を、大量の戦車を操る米軍が、怪異と戦う?
私の疑念にデービッドは得心したように微笑みで返した。
「まだ肝心の所を説明してませんでしたからネェ――。私達は米軍であって米軍ではないのですヨ」
「……、それはどう言う――」
「我々は、米軍と協力関係にある『神聖同盟』という霊会組織なのデス」
――事態は複雑であった。
大日本帝国陸軍第三師団
最古の師団の一つであり、第二次上海事変、南京攻略、武漢攻略に参加。昭和19年には大陸打通作戦――本土に襲来するB-29の脅威を排除、予防する目的も含まれた大規模作戦にも参加している。