「わかること」と「わからないこと」
例えば、哲学に対する様々な「解説」がある。的外れなものがあり、的を得ているものもある。しかし、どれを読んでもいまいち釈然としない。
それで、哲学書を実際に読んでみる。難解ではあるが、時間をかけて読むと少しずつわかってくる。とはいえ、全てがわかるわけではない。解説書、哲学者の伝記を副読本として使い、理解を深めていく。
この「理解」の旅はどこまで続くだろうか。原著を読む事だろうか。哲学者の住んでいた国に行って、彼が住んでいた家を見る事だろうか。
こうした「理解しようとする」行為そのものは誠実な行為と言っていいだろう。しかしこの旅は、どこまで行っても、底に突き当たる事のない無限降下のようなものである。どこまでも行っても「わかる」という事に最後の一頁は現れない。本は終わっても、本から広がる連想や自意識は留まるところを知らない。
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例えば、デカルトの「我思う故に我あり」という比較的簡単な哲学的答えはどう理解すればいいだろうか?
「デカルトは、宗教が支配していた世界を突き破って、理性的に何が正しいのかを考え、唯一正しいと思われる答えを導き出した。それが「我思う故に我あり」であり、この合理的な精神から、理性的に正しいと思われる答えを積み重ねていく近代的な思考が始まった」
これぐらい書いておけば、とりあえずは間違いではないだろう。しかし、こうした「理解」は本当に「デカルト」を理解したものだろうか?
デカルトが考えたのは次のような事である。彼は、理性的に絶対的に正しい答えだけを出そうとした。仮に自分が悪魔に欺かれていて、自分の見ているもの、聞いているもの、その全てが「嘘」だとしても、それを見て、考えている自分は少なくとも存在する。少なくとも、デカルトにとって、デカルトの思考する「我」は存在している。
我々は、このデカルトの哲学を、他者の立場に立って理解しようとする。つまり「17世紀のフランス人の哲学者デカルト」は〇〇と考えた、というように。しかし、デカルトの立場から見ると、そのように考える他者の存在そのものが、悪魔の欺きの一種かもしれないのだ。
それ故にデカルトは「我思う故に我あり」と考えた。
しかし、私がこうして書いている文章、それ自体も本当は間違いである。というのは、デカルトの立場からすれば、私の存在も私の文章もやはり悪魔の欺きの可能性かもしれないのだから。
だから、仮に私が「あなた方は何もわかっていない! デカルトの心に忍び込んでみれば、全ては悪魔の欺きだったかもしれないのですよ! そのデカルトの思考の如実性というのが、あなた方哲学読者にはわかっていない!」と叫んだところで、やっぱりそういう"私"の存在そのものが、デカルトにとってはただの悪魔の欺きの一種にしか過ぎないし、私がどれだけ「デカルトの真意」に近づいたと考えたとしても、私がデカルトを完全に理解していると私が言明する時、そこには必ず欺瞞が生じてくるのだ。
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デカルトに取って見えたデカルトの真理を、ここではとりあえず「全面性」という言葉で考えてみたい。
私はデカルトの著作を読み、彼について調べ、彼の住んでいた国に行き、彼を理解しようとする。それでもデカルト自身の全面性に一致する事はない。
そもそも、デカルトという哲学者と全面的に一致するとは、私がデカルトその人になる事に他ならないのだから、そもそも、それは不可能だという事になるだろう。
というより、そもそも、そんな必要があるのか? という疑問も生じる。デカルトが二人いたとして、だから、どうなのだ、と。
何かを理解しようとする真摯な態度はこんな風に、いつかは「理解できない」という場所にたどり着く。そこで、解釈者は、解釈している対象と道を分かつ。
真に「わかろう」とする人間はその旅の途上で、対象と全面的に一致できない事を感じ、彼自身の道を行かざるを得なくなる。もう少し正確に言えば、彼は対象そのものになろうとして、なれなくて、それ故に、対象との比較・反射としての「自己」を知る事になる。これこそが「自己」そのものであって、その人間のオリジナリティの原石となるものではないかと思う。
ニーチェはショーペンハウアーを深く尊敬していたが、ショーペンハウアーとは逆の道を歩んだ。ニーチェはショーペンハウアーの奥深くに分け入っていき、そこで自らを発見したのだろう。というのは、それ以上、入っていけないある地点が彼の中に存在して、そこから彼は「彼」、つまり、"ニーチェ"にならざるを得なくなったのだろう。
例えば、文筆の世界を見ると、様々に「わかっている」人がいる。彼らは賢い。色々な哲学者の言っている事を小器用に整理して、教えてくれる。あたかも、彼は万能の人のように見える。
しかし、彼自身の「全面性」と呼べるものはどうなっているのか?と問うた時、別に彼には彼独自の哲学、思考というものは存在しない。彼は彼自身を開示していない。彼はデカルトのように、「少なくとも自分にとっては絶対的に真実だ」と言えるようななにものかを抱えていない。
彼はデカルトより遥かに広く、豊かに世界を眺めている。空間的に、扇状に広がっている様々な哲学者について知り、歴史について、科学について、芸術について知っている。それは確かに彼の自意識を構成する一つの要素ではあるだろう。
だが、彼はそれらの要素をバラバラに放置したまま、「彼そのもの」を作り上げる事ができない。一人の芸術家になる事や、一人の哲学者になる事とは、まさにその人間が、「その人間そのもの」になる事だ。これは狭くて深い事である故に、知識を沢山収集している人間よりも一見頭が悪く見える。
しかし、彼は自分自身を開示しており、彼は「全面性」と呼ばれうるような哲学を有している。彼はそういう体系を作ったというよりも、彼自身がそういう体系だったのだ、と言えるところまで彼を押し上げた。つまり、彼は"哲学者"だったのだ。
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このエッセイで言いたい事は「わかる」という事は底なし沼である為に、どこかで彼は回折して、「わからない」という事に気づき、そこから自分自身にならなければならない、というような事である。
簡単に言えば「わかろう」とする事から「わからない」が生まれ、「わからない自分」というのが、「わかろうとしていた対象」との対比で浮かび上がってくる、という事だ。
何故、このようにオリジナリティというものが現れるかと言うと、人はそれぞれ違うからだ、という単純な理由による。しかしほとんどの人はその事を徹底的に、自己の根源に至るまで突き詰めようとはしない。彼らは表面的な差異で満足し、あるいは表面的な一致で満足する。
"私"がオリジナルな表現を持たなければならないのは、私に才能があるからでも、ないからでもない。単に私が私であるからだ。それだけの事だ。
しかし"私"を発見する為には、他者の魂の深淵に下降していく必要がある。その降下作業の途中で彼は自己自身の面貌を発見する。他者を軽く見て、薄っぺらい自己に満足し、それをオリジナリティと考えている人間に"私"が発見されるという事は決してない。そうした人は、自らを発見できるだけの深い"他者"と出会わないので、いつまでも自己の表面に留まり続ける。