9・(月)5月21日
本日も数本アップしたいと思います。
9(月)5月21日
午後いっぱいを暮れてゆく板張りの部屋で過ごして、サザンクラウンへ出向いたのは六時五十分だった。そのエレベーターで、
「乗ります! 乗ります!」
駆け込んできた男性がいた。
「あれ? オタクももしかしてサザン?」
男性は肩にギターを担ぎ、愛想のいい笑いを浮かべて話しかけてきた。
「ええ……初めてなんですけど」
「そっか。俺、橋詰誠。ヨロシク」
早速右手を差し伸べて来たので、
「えと、杉内直己です」
ギターを壁に立てかけて握手に応えた。その手は力強かった。歳は二十代に見える。
「ちわっす! マスター、新人ナンパしてきたよ!」
橋詰さんは笑いながらドアを開けたが、僕が探したのは麗美の姿だけだった。が、どうやら集まっているのはミュージシャンばかりで、そこに彼女の姿はなかった。
「ナオミ君、来てくれたね」
周囲と談笑していた様子のマスターが、ドアに目をやり、僕へと笑顔を投げた。
集まっているのはサングラスをかけた男性と長髪の男性。それに真っ赤な口紅と泣きホクロが印象的なソバージュの女性だった。そこに僕と橋詰さんを入れて五人だ。ということは五人が演奏するのだろうか。と思ったところに、
「じゃあ四組集まったね。くじ引きしようか」
マスターが割り箸を握るとそう言った。どうやらサングラスの男性とソバージュの女性はユニットらしい。
それぞれが思い思いに割り箸を手に取り、最後に残った一本を僕が手にした。書いてある数字は3だ。三番手という、非常にやりづらい順番になった。いっそのこと一番手で恥をかいた方がまだましだった。何より、麗美が来ていないことの方が気になる。
「じゃ、セッティング始めます」
一番手を引いたのは、長髪の男性だった。寡黙な人らしく、黙々とアンプをいじり、三分程で調整を終えた。ステージは角の席からテーブルを外し、カウンター用の椅子が置かれていた。今のところ、客は一切なしだ。
「えー、永沢勇二です。今日はオリジナルばかり五曲唄います」
瞬間、ギターの音圧が店の壁を飛ばさんばかりに弾けた。聴いたこともないメロディーラインに、同じギターとは思えぬ音色。それが立て続けに三曲続いた。
「いーよユウちゃん!」
「サイコー!」
周囲が盛り上がる中、僕だけがここへ来たことを後悔していた。レベル云々の話ではなかった。ステージで唄う覚悟が違った。今聴いた曲がロックなのかパンクなのかそれすら分からない僕に、ここにいる資格はないと思った。
長髪の永沢さんはそのまま五曲目まで唄い切り、
「サンキュー」
ひと言でステージを終わらせた。そのまま肩で息をしながら美味そうにビールを空けると、彼はまた寡黙な男に戻った。
「じゃ、次、僕らね」
次はサングラスの男性と女性のユニットで、またアンプ調整の時間が空いた。
そこへマスターが、
「麗美ちゃん、来ないの?」
ビールを泡立てている僕へ訊ねてきた。
「いや、知らないんです。来るとは言ってたんですが……」
そうこうしているうちに次のステージが始まった。
一番手から一変し、曲はボサノバだった。これもまたレベル違いだった。どうしてこんな場所でお遊びのようなライブをやっているのかと思わせる実力が見え隠れした。ギターのフィンガリングやピッキングは僕からしてみれば神業で、女性ボーカルのかすれた声も、その辺のプロ顔負けだった。
曲を重ねるごとに後悔は増すばかりで、僕は気がつけば指先が震えていた。この緊張に比べれば路上の緊張など比ではなかった。音楽に疎い人も興味のない人も通る路上とは、ここは違うのだ。集まったのはセミプロばかりで、僕などが唄える歌の一曲も思いつかなかった。
(せめて麗美が来てくれれば……)
しかし、その願いも虚しくついに僕の番が回ってきた。
「あの、僕、いつも路上なんで」
そこでマスターが気付いたのか、
「その子ピックアップないから、誰かマイク二本セットしてあげて」
しかし僕はそれを断った。とてもそんな慣れないことは出来そうにない。
「じゃあナオミ君、生音でやるの? まあ出来ない広さじゃないけどさ」
そこへ、寡黙な永沢さんが、
「マイク一本でいいんじゃ? ギターもボーカルも拾う絶妙な位置で」
「まあ……やってみるけど」
サングラスの男性がマイクの位置を変えると、
「これでハウらない限界」
さじを投げるように言われた。
それでもセッティングは終わった。ここからが僕のステージだ。路上でたった一週間唄っただけの僕の実力だ。笑われても仕方ない。ただ、せめて麗美には聴いて欲しかった。
その思いも届かず、麗美は現れない。
「どうも。杉内直己と言います。初めての場で皆さんに囲まれて緊張してます。拙い歌ですが三曲ほど聴いてください」
一曲目は、唄い慣れた歌で、『僕が僕があるために』を演奏した。
F‐G‐C、から始まるその歌は比較的慣れている。初めて麗美に唄った歌もこの曲だった。
一曲目が終わり、拍手もまばらで、僕などどうでもいい雰囲気になってきた。
「次の曲は――」
その瞬間、ドアの開く鐘が鳴った。麗美だ。そして、
「レイちゃん久しぶり!」
「どこ行っとったん。待っとったよ!」
誰もがステージそっちのけで彼女に声を送った。
店のアイドルと化している彼女は僕を見ると、
「ナオミ君、いつもの感じで唄うとる? 緊張しちゃいかんよ」
今頃になってそんなことを言う。
「じゃあ、次の曲は『I LOVE YOU』という曲を」
スローバラードのせいか、誰もが静かに聴いてくれている、はずだったが、
「ナオミ君! いつも通り!」
彼女の声が飛ぶ。
僕は彼女に唄った思案橋の街角を思い浮かべる。いつしか緊張も消え、彼女のためだけに唄うつもりで演奏した。
唄い終えると明らかに拍手の質が変わった。友好的、とまで言えないまでも、聴く姿勢には入ってくれた。が、持ち歌はあと一曲だ。
「と、最後に……僕は思案橋近くでストリートミュージシャンを始めたばかりで、尾崎豊しか唄えないんですけど、一曲だけ、初めての歌を唄います。決して上手くないと分かってるんですけど、唄わせてください」
ほぼミュージシャンだけの客席がブルーライトに煌めいている。誰かの吹かす煙草の煙が渦を巻いては消える。そんな中、僕の震える右手がGコードを弾き下ろした。
途端に麗美が声を上げた。声にならない声、と言った方がいいかも知れない。
曲は、彼女にテープを渡されて以来、何度も何度も聴いていたアルバムのラストナンバーだった。彼女が赤字で二重丸を書いていた曲だ。唄うのはもちろん今日が初めてで、演奏はメチャメチャだった。ただ、彼女の前で唄いたくて懸命に覚えた歌だった。
決して負けない力――例えば僕にそんな力があったとして、それは誰に向ければいいのか分からない。分からないままも、僕は麗美に歌を捧げる。
曲のラスト、リンダリンダ、と叫び続ける僕はいつまでそうして唄っていたかは覚えていない。覚えているのは僕ひとりが熱狂するステージに、彼女の歌声が重なっていたことだけだ。
「杉内君。次、俺ね」
ラストの出演者の橋詰さんが苦笑いでセットを始めるとようやく我に返り、僕はギターを片手にカウンターへ引っ込んだ。マスターが、
「ナオミ君、お疲れ」
そう言ってビールを差し出してくれた。
「えー、若いパワーってのはすごいなと思いますが、ここは重鎮として安定した演奏をお届けします」
そんな言葉で始まった橋詰さんの演奏は、僕のあとなので余計に輝いて見えた。曲間の喋りも無駄なものは何もなく、曲を聴かせるためだけにギターを弾いていた。途中からそれが兄貴の聴いていた長渕剛の曲だと分かったが、その時にはもうラストナンバーになっていた。『逆流』というそのタイトルと、絞り出すような歌声が圧巻の曲だった。何よりブルースハープの音色に驚いていた。本人よりも上手いのではないかと思わせるものだ。言ってしまえば今日の総評として、素人は僕だけだった。