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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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8・(日・月)5月20日~21日

8(日・月)5月20日~21日


 一度、彼女のマンションへ戻って荷物をまとめた。


「スーツ、アイロンかけられんかったね」


「いいよ、別に」


「それとさ。ああいうカードあんまり使わん方がいいよ」


 暗にサラ金のことへ釘を刺された。


「じゃ、行こうか」


 彼女の言葉に僕はリュックを担ぎ、ギターケースを手にした。


 エレベーターの静かな音が響き、見知らぬ場所へと連れてゆかれる気配がする。彼女はいつも、僕の知らない未知の場所へと案内するナビゲーターのようだ。


「今夜はさ、とりあえずひと晩過ごそう。明日のことは明日考えてもよかたい」


 日曜のネオンの少ない篭町を歩く。道幅は車一台通れるかだが、今夜はタクシーの一台も止まらない。僕はまた興信所がつけて来ていないかだけが心配だったが、後ろを向いても誰もいなかった。


 驚いたことに、麗美が立ち止まったのは、湊公園の近くのラブホテルの前だった。


「いや、こういうとこは……俺、手持ちなくて」


「ああ、そっちじゃなくてこっち」


 麗美が歩いて行く先はビルの裏側で、


「片桐さーん。おるー?」


 三十秒ほどすると、中からガチャリと鍵の開く音がして、


「入んなさい」


 顔を覗かせた爺さんが僕らを見比べて言った。


「ここって……」


 ギターを握って突っ立っている僕に、


「ああ。ここのね、管理人さんの休憩所みたいなもん。もう使っとらんけどね」


 僕はとりあえずキセルを吹かす爺さん――今どきキセルというのに驚いたが――に訳も分からず頭を下げ、


「よろしくお願いします」


 と頭を下げた。部屋は四畳半の畳で、隅には丸めた布団があった。


 やがて爺さんは隣室へ消え、あとはすでに座り込んで深夜テレビを眺めている麗美の姿があった。


「ボーッと立っとらんで座れば?」


「あ、ああ……」


 それでも手持ち無沙汰の僕へ、美玲が灰皿を勧める。


「ビールでももらってこうか? 落ち着かんとやろ?」


「ていうか、ここに迷惑かけんかな。また親父たちに見つかったら」


 すると彼女は先に煙草に火をつけ、


「あー、やったら大丈夫と思う。ナオミ君ば探しとったとこはタキザワっていう二流の探偵事務所で、もう調べんように父親からプレッシャーかけさせたし、他も順にそうなるよ」


 平然と言ってのける彼女へ、


「麗美さんのお父さんって――」


 その先を躊躇っていると、


「余計なことは考えんでよかよ。ビール飲も、もらってくるけん」


 それだけ言うと彼女は隣室へ消えた。戻ってきた手にはラガービールの瓶二本とグラスの乗った丸盆があった。


「あたし、ナオミ君のブルーハーツ聴くまでは絶対守ってやるけん。もちろん聴いてからも守ってやる」

 お互いに言葉少ななままビールを飲み干すと、湿気た布団を敷いて寝た。布団は二組あった。明日のことは明日考える、そう出来ればどれほど楽だろうと思いながらも、他の手段がないこともまた確かだった。


 昼過ぎに目を覚ますと、麗美の姿はなかった。代わりに婆さんがひとりいて、じっとテレビを眺めていた。


「すみません、お世話になってます」


 身体を起こして言うと、


「ああ、起きなったね。レイちゃん今買い物に行っとるとよ」


 そう言うとまた、背中を丸めてテレビを見つめていた。僕は居たたまれなくなって布団をたたんで座っていたが、そこへ麗美が騒々しく戻ってきた。そして、


「ナオミ君。新しか部屋見つけたよ」


 ピースサインを作ると白い歯を見せた。


「新しい部屋って――」


「うん。こないだのパチンコ屋あるやろ? あそこの裏通りに寮のあるとさ。使っとらん部屋のあるけ

ん、よかって」


 それは誰の情報なのだろうと思ったが、詳しく聞くと恐ろしいことになりそうなので聞き流した。この頃にはさすがに、彼女がそこいらの小娘じゃないと僕も分かり始めていたのだ。


「あの、お世話になりました」


 婆さんに頭を下げてホテルの裏口を歩くと、五月の空は晴れ渡っていた。こんな日は平和公園でよくスケッチをしたものだ。たった一年前のことだったが、力強いソテツの枝ぶりや平和祈念像、それから平和の泉に描かれる水の紋様が懐かしく思い出された。


「こっちこっち」


 麗美の言う銅座の裏道を真っ直ぐ行くと、潰れそうな木造アパートがあった。その佇まいは、戦前からある、と言っても信用されそうなものだった。


「親から逃げるだけならよかやろ? いるもんあったら言うて。あたし家から持って来るよ」


 そう言うと麗美は木製のドアを軋ませて、中へ声をかけた。


「鮫島さあん。例の人、連れてきたけん。鍵ば貸してやって」


 すると出て来たのは気難しそうなオバさんで、まだサンダル履きの僕を値踏みするようにひと眺めした。そして、ひと言言った。


「鍵はなかけんね」


 さすがに麗美も面食らうかと思いきや、


「ああ、そう。じゃあ仕方なかね。二階のいちばん奥でよかとでしょ?」


「ああ」


 相変わらず機嫌の悪そうな顔でオバさんは短く答える。


「じゃ、ナオミ君。今夜サザンで待っとるけん。七時ね」


 清々した顔で背中を向けて角を曲がると消えた。何か言わなければと思い、


「あの……ご迷惑おかけしてすみません。お世話になります」


 精一杯の挨拶をしたつもりだったが、


「まさか部屋でギターでも弾くつもりじゃなかやろね」


 オバさんは僕の右手を眺めて顔をしかめた。


「いえ、そんな……」


「香坂さんとこの頼みやけんね。今度だけばい。なるべくは早う出ていってくれんね」


 それだけ言うと、あとは奥へ引っ込んでしまった。人に借りを作るということはこういうことなのだと強く後悔した。


 麗美の言う二階のいちばん奥の部屋には、ガランとした三畳ほどの板の間があるだけだった。ベッドもない。布団もない。トイレもバスもない。ご丁寧に天井には蜘蛛の巣が張っている。せめてと思い、立てつけの悪い木枠の窓を開けて空気を入れると気持ちだけましになった。


 何よりサンダル履きの足元をどうにかしようと、僕はギターも荷物も置き去りで、アーケードへ向かった。盗まれて困るものはあるが、大抵の泥棒なら素通りしそうなアパートの構えに安心して外へ出られた。


(その前に――)


 県庁坂の下手にあるATMで一万円だけ借り入れ、靴屋へ向かった。その場で靴を履き替え、もらった袋にサンダルを詰めた。それから床くらいは拭いておきたいと電車通りの店で雑巾でも買おうと思ったが、リュックに詰めたタオルで問題ないだろうとそこは素通りした。共用の風呂は壊れているらしく、今後は二日に一回のペースでサウナに通うことになるだろうと思えば、夜の路上演奏にも力を入れなければと思った。


 部屋に戻り、廊下の流しでタオルをきつく絞り、波打った床を無言で擦り続けた。その汚れ方たるやひどいもので、薄黄色だったタオルは床を拭く度に黒ずんでいった。うっかり横にでもなっていたら大参事だったろう。


 そんな作業も午後の三時には終わり、壁際にひと口だけあるコンセントを確かめると電気が通っているのは確かだった。これでウォークマンの充電は出来ると安心した。今の僕に必要なのは、音楽と幸運だった。パチンコで十連チャンするようなちゃちな幸運ではなく、すべてを注いでも構わないと思わせる何かに巡り合えるチャンスだった。



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