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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
72/272

72・(火)11月27日

          72(火)11月27日



 サザンへ出向くと、お客さんはカウンターにふたりだけだった。男女のカップルだ。


「ああ杉内君、来たね。ん? 後ろの彼女は?」


 マスターがドアを覗き込み、そう言った。


「はい。彼女もくろがね橋で唄っているストリートの仲間です」


 僕が言うとカウンターの男性が振り向き、


「僕が無理言うて呼んでもらったけんね。まずは一杯ずつご馳走するよ」

「よろしくお願いします。杉内直己です」


 左横の那由多を肘で突くと、


「日向那由多です……」


 どうしようもないという感じで名乗った。


 カウンターへ向かう前に、どうせ必要なのだしと思い、ギターと譜面、譜面台を出した。角の席を見ると、今日はライブのようにマイクセッティングはしていない。ということは、生音勝負なのだ。


「まずは乾杯させてもらうけん」


 いかにも『やり手』といった顔のお兄さんと、隣のサングラスが大きなお姉さんに乾杯すると、とりあえず今夜の第二幕が始まった。


「どういう歌、唄うと」


 男性は、僕と那由多に目線を送り、訊ねてきた。


「僕は尾崎豊が多いですね。彼女は――」


「あ、私こんな静かな雰囲気のとこで唄えません。すみません」


 那由多が予防線を張ると、


「まあよかよか。その尾崎豊ば唄うてくれんね」


 最初のリクエストは僕へと回された。そして、


「よかたい! いやあ、よかよか!」


 尾崎の『I LOVE YOU』を唄うと、男性は振り返って喜んでいた。隣の女性も軽く拍手をしている。


 そこへマスターが、


「今度福岡でデビュー目指して頑張るらしかですけん。応援してくださいね」


 そう言うと、なるほどねえ福岡か、と男性はショットグラスを空けた。


「もういっちょ、誰でも知ってる歌はなかね」


 誰でも知っているかは分からなかったが、カップヌードルのCMでお馴染み、大沢誉志幸の『そして僕は途方に暮れる』を唄った。


「いいねいいね! カッコよかたい! じゃあ彼女には何ば唄うてもらおうかねえ」


 ついにご指名を受けた那由多は、


「いえホント。私の歌って一般的じゃないんで――」


「その一般的じゃない歌を聴いてみたかとさ」


 まったく乗り気でない彼女に、


「こないだのキャンドルタイム前の数曲でいいって。な、頼むよ」


 小声で囁くと、あからさまに渋々とギターを用意し始めた。


「譜面台は俺のヤツ使っていいから」


 カウンターでは話が盛り上がっている。


「いやあ。二十歳て聞いとったけん、どげんお兄ちゃんが来るかて思うとったけど、バッチリばい」


 そこへ、


「正統派の音楽って感じがするよね」


 それまで黙っていたサングラスの女性がボソリとこぼす。


 そして那由多のステージが始まる。彼女はカウンターを離れ、ボックス席の角へ腰かけ、譜面台にいつもの譜面を置いた。彼女がいったいどんな歌で皮切りしてくれるのか、それが見ものだった。が、マイナー調の、まったく知らない歌だった。店はシンと静まり返る。彼女のギターはこの上なく響いているのだが、それを超える不思議な静けさがあった。


 結局のところ、その歌を知っていたのはマスターとカウンターの男性だけだった。長谷川きよしという盲目のミュージシャンの『黒の舟唄』という曲らしい。


「いやあ、この歌を生で聴けるとはねえ」


 最初に口を開いたのはマスターだ。続いて、


「ほんなこつ。ちょっとビックリしたばってん、お姉ちゃんよかったよ。他にはなかと」


 那由多は空気を読んだのか、譜面を差し替えると先日の『圭子の夢は夜ひらく』を唄った。今度こそ拍手喝采で、サングラスの女性も大きく手を叩いていた。それに気をよくしたのか、雰囲気を読んだか、小坂明子の『あなた』まで付け足すサービスだった。


「アンタたちゃあ、ホントにアマチュアね? どっちもプロ顔負けやったばい」


 笑顔を隠すこともなく、男性が言う。そしてカウンターのビールがなくなる前に、


「じゃあ、福岡で頑張って来んね」


 男性は席を立ち、一万円札を僕へ手渡した。


「いえ、そんなつもりじゃ――」


 と言う僕に、


「よか歌聴いたけん」


 と、優しく僕の手のひらを開いた。そして那由多にも同じように紙幣を手渡していた。そこまでは飲み屋でごく稀に見かける光景だったが、さらに驚いたのは次の瞬間、


「私からも応援。有名になってね」


 女性からも一万円ずつ渡された。那由多とふたりで、計四万円を稼いだことになる。


「ありがとうございました……」


 恐縮の余り声もない僕らは、見送りに出たマスターの後ろで小さく頭を下げるだけだった。


「よかったね、ふたりとも。飲み代ももらっとるけん、あとは好きなお酒でも飲んで」

 カウンターの中に戻るとマスターは笑ったが、那由多はもらった紙幣を二枚重ねてブツブツと呟いている。


「マスター、何か強いお酒ありますか。このままじゃ眼が冴えて眠れないんで」


「じゃあ、基本的なお酒としてマティーニを――」


 那由多曰く、そのあとの記憶はないらしい。なので代わりに僕がその後を説明する。


 浮かれ気分で観光通りを抜け、コンビニでは熟女専科といういかがわしい雑誌を立ち読みし、最近見かけないまるごとバナナの行方を店員のオジさんにしつこく訊ね、僕に引っ張られながらアパートに戻った。


「これだから飲み屋街のストリートは怖いんですよ!」


 荷物を置き、僕の前で堂々とジャージに着替え、バッグから歯みがきを出し、


「わらひは別にふり圭子が好きな訳やありまへんはら。そこんほこ、よろひく」


 布団にもぐると一分でいびきが聞こえてきた。僕もシャワーは面倒臭いので着替えるとすぐに布団へ入った。ここを出るまであと四日だ。



「ぐああ……頭痛い。講義出たくない」


「別にいいんじゃないか」


「ナオミさんは分かってません。今日の講義は有名な……いたた」


 とりあえず温めのカフェオレを作ってテーブルに持っていく。


「ありやとやんす」


「感謝の言葉は丁寧にな」


「ありがとうございましたまえ。で、私なんでこんなに頭痛いんでしたっけ」


「マティーニのせいだろ。気に入ったってお代わりしてたから」


「マタニティーなんて私、関係ありませんよ」


「マティーニ。ジンとベルモットのカクテル」


「モルモットとか水産ではあり得ません」


「どうでもいいからそれ飲め」


「あい」


 それから出がけに財布の中身を見つめ、


「夢じゃ……なかったんですね」


 血の気の引いた顔で呟いた。が、その直後、


「あの本買えるかも」


 しみじみとした表情で言った。


「じゃ、行ってきます」


「おう。今夜はどうすんだ」


 合鍵を返して以来、彼女はギターを持ち帰るようになっている。


「出ます。貴重な残り日数ですから」


 それだけ言うと、那由多はドアを抜けた。


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