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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
71/272

71・(火)11月27日

          71(火)11月27日



 いよいよ今週末で部屋を出る。そこまでにやるべきものは何だろうと思えば、福岡行きへの気構えだけのように思われた。乱れがちだった心の整理はほぼ終わった。あとは悔いなくストリートに顔を出すだけだろう。


 昨日の大雨は一日で去り、外は快晴といかないまでも澄んだ青空が広がっている。洗濯日和だ。


 洗濯機が回っている間、麗美からのテープを聴きなおす。その度に胸に温かさが込み上げ、この半年間を肯定する力に変えた。


 洗濯物を干すと時間はたっぷりと余り、また曲づくりかと辟易したが、とあることを思いついたので表へ出て公衆電話へ向かった――。


 スタジオDまでは、徒歩二十分だ。


「スタジオ予約は基本的に一週間前ばい」


 須藤さんにたしなめられながらも、


「どうしても一曲だけ録りたい曲が出来まして」


「新曲ね」


 多少顔つきの変わった彼が煙草を消して言った。


「はい。すごくパーソナルな曲だと思うんですが」


「昼は暇やけんまあよかよ。制限時間は三十分で。これ越えたら有料にするけんね」


 笑ってみせた。


『じゃあいきなりフルで録るけん、ちょっとミスっても止めんようにね』


 須藤さんが腕を振り下ろすと、僕はイントロのギターを奏でた。発声もしていないボーカルは不安定だったが、須藤さんの言いつけどおりそのまま唄い続けた。ただひとり、彼女のことだけを思い、唄い上げた。


『OK 四分二十秒』


 ヘッドホン越しの須藤さんが一発目でOKを出した。


「で、このテープどうするとね」


「ある人にすぐあげます」


「じゃあ手元に残らんやろ。もう一本コピーのいるね」


 僕はしばし考えたが、


「いえ、いいんです。世界で一本だけのテープですから」


 その後、一階に戻ると話はやはり福岡行きの件になり、


「向こうの給料もとりあえず出るけんね」


「出るんですか?」


 少々驚くと、


「まあ、言うても七、八万よ。そん中にイベント出演も入るし雑用のごたるライブ手伝いも入るし、家賃ですっ飛ぶと思うとかんね。まあ杉内君はストリートでどうにか食えるかも知れんし、そこは分からんたい」


「ライブなんかはどうなんでしょう」


「うん。曲が揃えば組んでもらえるよ。だけん『まずは十曲』って落合さんも言うとさ。しかも十曲全部にゴーサインが出ると思わんごとね。選りすぐった中からライブをして、その中で人気の出た曲をシングルに据えて売り出す。まずはこれがひとつ。そしてそのチケットをどれだけ売れるかが真骨頂さ」


 なるほど、と僕にはうなずくことしか出来ない。


「それとね杉内君。これはダメ出しじゃなかとけど、ストリートではギターストラップつけて立ちスタイルにした方がインパクトあるよ。これも基本。日向さんのごたる特殊な形は置いといて、立った方がライブでも映えるし、身につけとって損はなかけん」


 いちいち納得のいく話に、僕はコーヒーにも手を付けず、真剣に話を聞いた。大人の話をこんなに真剣に聞いたのは小学生以来かも知れない。


「分かりました。帰りにでもストラップ買って練習します。ありがとうございました」


 スタジオDをあとにすると、腕の時計は十二時四十分だった。僕は用意していた封筒にカセットテープを入れ、郵便局へ向かった。


 観光通りの楽器屋で早速ウエスタン調のストラップを買い、部屋に戻ってギターにつけてみた。首を通して構えるとポジションが違う。苦心して長さを調整したがそれでも弾きにくい。それは僕がどれだけストリートで指板を見ながら弾いているのかという答えに落ち着いた。要はギターの指先を見過ぎなのだ。


 それからしばらくはピックも持たずに立ち姿で慣れた曲を弾いてみていた。が、隣の部屋から突然、ドン、と音がしたのですぐにやめた。これはストリート本番で試してみるしかないだろう。



 ということで、夜の路上は立ってみた。思った以上に落ち着かないものだ。もちろん譜面台もいつもより高くセッティングしている。


 手始めに慣れた歌をと思い、尾崎の『路上のルール』を弾き始めたが、通行人と同じ目の高さで唄うのがいちばんに堪えた。僕は卑屈なのだ。地べたに座って物乞いをしている方が性に合っている。おまけにギターの音はヘロヘロで、これはかなり高等技術が必要だと思った。


 悔いてばかりいる訳にもいかず比較的コードの優しい『卒業』を唄っていると、


「あのう、この子の分かる歌を唄ってもらっていいですか」


 という若いお母さんが現れた。見れば五歳くらいの女の子を連れている。酔客に唄ってナンボの僕にそんな歌がある訳がないと思ったが、『アンパンマンのマーチ』があった。歌詞は適当だ。その適当な歌に女の子ははにかみ、笑顔を見せ、


「ありがとおございました」


 母親からもらった百円玉を可愛らしい指先で渡してくれた。


 そんな微笑ましい光景から一転して、次に来たのはバリバリのヤンキーふたり組だった。立ち姿で演奏すると、そういう客付きもあるのだと感じ入っていた。


「こんばんは。どんなのがお好きなんですか」


 作り笑顔で話しかけると、


「ああ? 銀蠅に決まっとろうが」


 ああそうなのかと思い、


「銀蠅はないんだけど、嶋大輔なら――」


「おう! 唄えや! ハンパやったら承知せんぞ!」


 その粋がり方が可愛かったので、頑張ります、といいつつ歌謡全集をめくった。唄い始めるとヤンキーは、


「おう! マジで唄えるやん、この兄ちゃん!」


 とテンションを上げ、一緒に唄い始めた。


「兄ちゃん! よかったばい!」


「マジでイカしとった!」


 そうして財布を隅から隅まで探し、


「ありあっした!」


 ふたりで八十五円を入れていった。これもまたストラップ効果だろうか。


 ひとまず十一時を迎え、ギターケースはさほど賑わってはいない。ここで唄うのも残り僅かかと思えば、もうひとこえ繋げたいところだ。


 そこへ、珍しい人が現れた。サザンクラウンのマスターだ。


「杉内君久しぶり」


「お久しぶりです。どうされました?」


「いやね、お酒の買い出しに出たとけど。今、音楽好きのお客さんがおって、杉内君の話ばしたら呼んでくれって言われてねえ」


 言いつつ、マスターはさり気なくギターケースを見る。


「多分、羽振りのよか人やけん。おひねりもあるかも知れんとけど。どうね」


「じゃあ……伺います」


 するとマスターはにこやかに微笑み、


「それじゃ戻って待っとるけん。じゃあね」


 お酒のボトルを抱えて銅座の奥へ向かった。僕は大急ぎで店仕舞いをしていたが、


「終わりですか」


 ナイスなタイミングで那由多が現れたので、


「お前! 来い!」


 二つの単語で有無を言わせずサザンへ向かった。


「どういうことなんですか!」


「営業だ。お前も少しは潤うぞ」


「別に興味ないですから!」


「いやいや、ストリートミュージシャンやるからにゃ、こういうのも経験しないと」


 好き勝手を言いつつ、彼女の手を引いて篭町へ向かった


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