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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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7・(日)5月20日

          7(日)5月20日


 翌朝は同じシーツで目を覚ました。目覚ましを見ると十二時近く、僕は下着姿の自分に慌ててすぐに着替えをすませた。


「そげん急がんでも誰も帰って来んけん」


 朝に弱いのか、彼女はシーツを頭から被り、二度寝の態勢に入る。そして、


「一緒に寝とるのに何もせん人って初めて」


 恨むような、それでいて笑っているようなくぐもった声で言った。


「言ったろ。彼女おるけん」


「そうやけどさあ」


 ムクリと起き上がった彼女はキャミソールの肩ひもを落として眩しそうに目をこする。


「どっかご飯食べに行こうよ。昨日サザンで奢り損ねたけん、あたしが出すよ」


 彼女はようやくでベッドから起きだし、ショーツ姿で風呂場に向かった。


 彼女の着替えを見ないようにしながらテレビをつけて、素人ののど自慢を見ながらボーッとしていた。


「準備出来たよ。それとスーツ貸してごらん。洗ってからアイロンかけてやるけん」


「いいよ……自分でするけん」


「信用しとらんやろ? あたしこれでもクリーニング屋に勤めとったとばい。荷物出して」


 その強引さには白旗を揚げるしかなく、そして僕は、


(またここに来る理由が出来てしまった)


 後悔ではなく、純然たる事実として考えていた。そのせいで、荷物を置き去りに出かけることに躊躇いはなくなっていた。


「リンガーハットでよか? あたしあそこの金券持っとるとさ」


 玄関でスニーカーを履いていた麗美が言った。


「いいけど」


「浜勝でもよかけど」


「いや……ちゃんぽんでいい」


 まだ昨夜のアルコールが身体に残っているようで、豚カツを食う気にはならなかった。


 昼の思案橋を逆行すると、街はゴミ溜めに見える。そんな吹き溜まりの街を、彼女は軽やかに歩いてゆく。空缶を避け、水溜りを避け、リズムのないステップを踏むようでいて、それを眺めていると思案橋を抜けていた。


 日曜のリンガーハットでは五人待たされて店内へ入れた。


「ナオミ君、餃子食べる?」


「うん」


「ビール飲むよね」


「うん……」


「なんか連れて来て失敗やった?」


 思わず「うん」と答えそうになった。


「別に……誰かと食事とか慣れとらんだけで」


「彼女さんとは行かんと?」


 今まさに考えていたことを指摘されて弱ったが、無言の僕へ、


「それとこれは別やろ。浮気した訳じゃないし。昨日ナオミ君を泊めてあげれたとって、あたししかおらんかったろ? それとも彼女さんに頼めた? 緊急避難よ」


 それでも黙っている僕に、彼女はオーダーを呼びながら告げた。


「何かあった訳じゃなし、気にせんで。あたしも何もしてくれんかったこと許すけん」


 そこで、堪えきれず、と言った顔で彼女は笑い出す。


「あはは! あ、Bセット二つで、中瓶一本。あー、おかしか」


 こんな笑顔も見せるのかと思いきや、麗美は不意に煙草を取り出すと火をつけ、


「ナオミ君て不思議やね。ウチの弟そっくり」


「弟さん?」


「うん。死んだけどね、事故で」


「……」


 それから彼女は死んだという弟さんに線香でもあげるように煙草を吹かし、届いたビールをグラスに注いだ。


「このあとさあ、パチンコ行かん? 別に歳はクリアしとるやろ」


「よかけど。俺もう余裕あんまりないし」


 強がって自分のことを「俺」と呼んだが、


「だけん行くとさ!」


 彼女は僕の台詞を一笑に付した。


 思案橋を抜けた電車通りはパチンコ屋だらけでそこから悩むところだったが、


「あ、ここにしよ。こないだ平台で一万出したし」


 迷うことなく麗美はホールのドアを抜けた。


「あたし、向こうの方におるけん」


「じゃあ俺、こっちの羽根もの打ってるから」


 すでに残り軍資金ではそれが限界になっている。いざとなればまたカードに頼ろうと思ったが、今度こそそれは破滅への道に繋がるような気がしていた。


 両隣をオヤジに挟まれて打ち始めて三十分。じわじわと出玉を増やしているところに、


「当たったよ。今ふた箱」


 麗美から差し入れのコーヒーがあった。


「こっちは地味やけん。ま、のんびり打つよ」


 それがそこで交わした最後の言葉になるとも思わず、僕は銀玉を跳ねていた。


 そして展開は急だった。


 羽根もののチャッカ―を銀玉がスルーして羽根が開いたと同時だった。いきなり両腕を後ろから抱えられて立ち上がらせられた、何が起きたのかも分からず左右を見ると、兄と父が睨みを利かせて腕を抱えていた。無言のままにすべてを理解した僕は大当たりした五十三番台をそのままに自動ドアへ向かって歩いていた。後ろから声が聞こえた気がしたが、僕には確かめる術もなかった。


 タクシーを降ろされると、一週間ぶりの家の前だった。小突かれるように玄関へ向かわされ、靴を脱ぎ、居間へ向かうと理恵が大人しく座っていた。が、僕の顔を見た瞬間、静かに泣き始めた。


「あんた! 理恵ちゃんに謝りなさい!」


 まず飛んだのは母の言葉だった。


「女の名前も分かっとると。香坂麗美、二十一歳」


 次は父の声が飛んだ。


 興信所でも頼んだのか、麗美の名前を出されて狼狽えたのは確かだ。が、そんなことまでして僕を捜そうとする父母が信じられなかった。その事実が僕の態度を頑なにした。


「俺、もう家出るけん。ここまでして捜されるとか、信用ない訳やろ? やったら出て行くよ」


 しかし父はそれを許そうとせず、


「当たり前やろが! 学校は行かん! 仕事はせん! 誰がお前ば信用するか!」


 そして母は泣き続ける理恵をなだめるだけだった。


 結局、財布の中身を取り上げられ、理恵とは言葉も交わさず、部屋に軟禁状態になった。サラ金のカードを見つけられたらどうしようかと思ったが、麗美の部屋に置き去りの上着のポケットに入れていたことを思い出してホッとしていた。


 それより麗美のことだけが気になっていた。いきなり消えた僕のことを、心配していないだろうか。


 二階の部屋にこもって五時間。いつもは大音量でかける尾崎豊のCDが、今日はブルーハーツのカセットテープだった。同部屋の兄は無言で机に向かい、ぶ厚いハードカバーを読んでいた。要は監視役なのだ。


 そんな兄が煙草を消すと椅子を立ち、本を持ったまま階段を降りた。長年の癖で、きっとトイレだと踏んだ僕は、窓を開けベランダのサンダルを履くと、柵を乗り越えて逃げ出した。ブルーハーツのカセットとウォークマンは忘れなかった。


 徒歩で片道一時間半の街中は日曜ということもあって人はまばらだった。僕はと言えば麻のジャケットにジーンズ姿で、足元のサンダルだけが気になっていた。


 麗美のマンションへ辿り着き、息を飲んで呼び鈴を押したが、返事はなかった。書き置き出来るペンも紙もなく、縋る思いでサザンクラウンを訪ねると、


「麗美ちゃん、さっきまでおったよ。ナオミ君のこと心配しとったけど」


 それは親の心配よりも僕にとって深刻だった。この街で彼女の心配になるようなことはしたくない。


「一杯飲んで待っとったら顔出すかも知れんよ」


「けど……今ちょっと手持ちがなくて」


「そうね。じゃあコーヒーでも飲んで待ちなさい」


 どこまでも人がいいのか、髭のマスターは席を勧めた。そして、


「麗美ちゃん、ああ見えてマジメやけんよろしく頼むね」


 言いつつマスターはドリッパーに湯を注いでいた。


 小一時間経ったろうか、他に客のいない店へ、カランと鐘の音と共に入店してきたのは赤いTシャツの麗美だった。その顔は瞬間引きつったようにも見えた。


「ああナオミ君、よかった」


 いつものクールな笑顔に戻った彼女へ、心配かけたことを謝る。


「ごめん、親父たちにバレてしもうて」


「ホント? 他のお客さんに訊いたら『二人組のヤクザに連れて行かれた』って聞いてさ。そっちのスジで探しとったけん遅うなって」


「ごめん……」


「家、来るやろ? 荷物置きっ放しやし」


「いや、それが……」


 家の方に彼女の名前まで分かってしまっていることを言うと、


「じゃあ、しばらく別荘においで。そこ、多分見つからんと思うけん」


「別荘って……」


 その先が繋げない僕に、


「友達のとこ入れたら三つくらいあるよ。全部街中やけん。て言うてもナオミ君、ストリートで唄っとっ

たらすぐ見つかるけどね」


 それもそうだと、自分の浅はかさにようやく気付いた。


「どうする? 荷物もあるやろ? 今夜のうちに別のとこ行く?」


 今度こそ真剣な顔を見せた彼女に、僕は頭を下げた。自分の家以外だったらどこでもいい気分だった。


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