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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
62/272

62・(木)11月22日

          62(木)11月22日


 十一時を回り、少し賑やかさの過ぎるギターケースを整理していると、須藤さんとなぜか菅原さんが通りかかった。こちらも驚いたのだが須藤さんの驚きはそれ以上だった。


「珍しかツーショットじゃなかね」


 僕と那由多は顔を見合わせ、


「僕が誘いました。残り少ない長崎での時間を、たまには彼女と唄ってみたくて」


「そうね。今日はね、ウチでライブのあったとやけど打ち上げもそこそこで飲みに出たとさ。あんましよかバンドじゃなくてね」


 そこへ、


「おふたりご一緒では何か演奏出来るんですか?」


 と菅原さんが言うので、那由多と見つめ合ったが、


「那由多、さっきの藤圭子やってくれる?」


「あれですか……。でもナオミさんはどうするんですか」


「俺はハープで」


 やったことはないが面白そうだと思い提案した。彼女は乗り気でなかったようだが、


「母親のカラオケソングなんです。唄います」


 Bmのアルペジオが悲しく響き、僕はDのハープでメロディーを追いかける。


 須藤さんも菅原さんも息を飲んで聴いている。ハーモニカを控えた方がいいかと思うも、彼女の発声につられてつい大きくなってしまう。


 須藤さんたちの真剣な佇まいに、また通行人が足を止め始めた。那由多は軸がブレることなく唄い続ける。


 ハーモニカのビブラートを最大限にしてフェードアウトすると、那由多が声を出しきり、また通行人から拍手が起きた。もちろん須藤さんと菅原さんも手を叩いていた。


 数分後、また静けさが場を包むと、


「いやあ、時代が違えば大ヒットですよ」


 なんとも気恥ずかしい言葉を送ってくれたのは菅原さんで、


「もちろん、元々ヒットソングなんやけどね。そいにしてもよかった。日向さん、絶対待っとるけんまたライブしてね」


 須藤さんも満足げに言った。


「二人は何時に上がると? 今からどこか行こうと思うとるけど」


「僕らは――」


 別行動で帰ると言おうと思った矢先、


「ご一緒出来ますか」


 那由多が言った。すると須藤さんが、


「よかよ。杉内君も来るね」


 こうなったら付き合うしかなく、


「お世話になります」


 すでに譜面を片付けつつ答えた。



 須藤さん曰く「気楽な店やけんね」という店は思案橋を奥へ入り、上り坂を左に折れた丸山の方だった。店の名は『お龍』という和風スナックだ。平日というのに三人の女の子がいた。客はカウンターに二人だった。


「あら須藤さん珍しか」


「ママ、未来の売れっ子歌手ば連れてきたけん、奥ば空けてもらえるね」


「よかよ。稔ちゃんのお願いなら。あら可愛らしかお嬢ちゃんもおるたい。ゆっくりしてってね」


 那由多はこういう場所に耐性がないのか、着物のママに小さくお辞儀をしただけだった。

僕らのギターと荷物を店の角へまとめると、その隣、六人が座れる黒いソファーへ案内された。僕と那由多は壁際に並んで座らされた。


 女の子たちはきびきびと動き、ドリンクをそれぞれ用意した。那由多もここではレモンチューハイを頼んでいた。それぞれ乾杯すると、須藤さんがネクタイを緩めて訊ねてきた。


「杉内君は、こっちの方まで来ることはなかやろ」


「ええ、そうですね」


「この一帯は昔、遊郭でね。坂本竜馬も歩いてさるきよった町やけんね。この店の名前も竜馬の嫁さんからもろうとる由緒正しき店ってことさ。だけん読みは『おりゅう』じゃなくて『おりょう』ね」


 須藤さんの豆知識を横に、那由多はぼんやりとレモンハイを飲んでいる。そして須藤さんは、


「杉内君。たまにはね、ローリング・ストーンズとか聴いたらよかよ」


「はあ」


 脈絡もなくそんな話が出るのは酔っているからだろう。


 そんな中、


「日向さんはこういうとこ来ないでしょ」


 目の前の菅原さんに訊ねられ、那由多が恐縮した。そしてなぜか、


「私……学校だけは出たいんです」


 店内に流れるボズ・スキャッグスにかき消されそうな声で呟いた。


 しかし菅原さんにはしっかりと届いたようで、彼はソファーから一度腰を浮かし、


「それは卒業した暁には我が社の方に来ていただけるということでしょうか」


 濁りのない目で訊ねた。須藤さんは僕の目を見て、意味ありげに口元をゆるませた。


 那由多は答える。


「申し訳ないんですが、必ずしもそうだとは限りません。私は水族館の仕事をしたくて、今は学校に通っています。けれど音楽と両立できるような生半可な仕事ではないんです。研修に、実習に行くたび、飼育員の方たちのハードな仕事を目にして、それでも歌も唄いたい、とは言えないんです。もし時間があるとすれば今がいちばんその時なんです」


 しばらくその言葉を噛みしめ、


「それは、在学中ならば自由に音楽が出来るということですか?」


 菅原さんはそう言って水割りを口に含んだ。


「その間に何か形になれば、音楽を選んでもいいと思ってます。わがままですみません」


 須藤さんは煙草に火をつけたまま何も言わない。席へ着いた女の子もピリピリした空気に何も言えずただ黙っている。


「日向さん。こう考えてはくれませんか。あなたの音楽性を、そして音楽家としての可能性を伸ばすために、ウチを利用してみるんです。ウチも会社組織ですから芽の出そうにない種は掘り返して捨ててしまいます。シビアな世界です。しかし――杉内さんも同席の中で言いにくいことですが、専務はあなたの歌を最大限に評価しています。十曲あればCDを出すとまで言ってます。そしてそれは早ければ早いほどいい。そう思うのは、あなたの歌声がこの数年の中で古くなってしまうことを恐れているからなんです。何人もそういうアーティストはいます。いい歌だったら売れる、というのは幻想です。実際は真新しくなければ売れない世界なんです。さらに言えば、男ならばカッコいい。女ならば可愛い、それに越したことはない世界なんですよ。あなたには今、その要素がたくさんあるんです。歌声は響く、演奏スタイルも独特のものがある、そして現役大学生であること。それを利用して、うちの事務所を利用して、表舞台に出てみる気はありませんか」


 菅原さんの長い説得に、場が静まり返る。僕はタンブラーのビールを傾けるのがやっとで、那由多へ何か助言することなど出来なかった。


「私の歌、おかしくないですか……」


 那由多がボソリとこぼす。


「ええ、おかしいどころか素晴らしい歌声です」


「だって……昔から……私が唄うと皆、笑うんです……」


 那由多が涙を拭った。ように見えたのは僕の勘違いだろうか。


「ママ! ちょっといい!」


 煙草を吸い続けていた須藤さんが突然、カウンターの客を相手にしていたママを呼んだ。


「どうしたね稔ちゃん」


 こちらの雰囲気は見て取れていたのか、不必要な笑いは消してママがやって来た。


「今からちょっとこの子の歌を聴いて欲しかとやけど、生演奏で」


 するとママは手慣れた様子で、


「キミちゃん、ちょっとBGMとカラオケ消して」


 業務連絡のあと、


「いくらでも」


 そう言って笑った。


「日向さん。こういう場所やからこそ、君の神髄が分かるとよ。一曲、唄ってくれんね」


 須藤さんが言うと那由多は不安そうに僕を見た。僕は、


「ハーモニカ吹ける曲なら付き合うよ」


 すると彼女は、


「『天の川』Dmです」


 呟いたかと思うとギターケースを取りに向かった。


 テーブルの高さの都合で、那由多はカウンター端に座り、その隣で僕はFのハープを構えた。ぶっつけだが、それなら今日すでに藤圭子で確認済みだ。だから確信があった。


 シンとした店に、那由多のアルペジオが響き始める。思った以上の音圧だった。僕はキー確認のためにイントロの頭だけハープを吹く。


 ――いつかそれは離れてゆく 幾千の歴史が教えてくれる

 ――今は迷いの中 繋いだ指も 絶える命を空へ返す

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