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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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6・(土)5月19日

          6(土)5月19日


 バー・サザンクラウンは思案橋から歩いて五分、篭町の中ほどのビルの七階だった。薄暗い店内は青い間接照明とキャンドルの灯かりに照らされていた。駅前のシティホテルのラウンジ程ではなかったが、緊張感が身体に満ちた。


「ああ麗美ちゃん。今日は夜回り終わりね」


 カウンターの中からマスターらしき人物が彼女に声をかける。その濃いあごひげは最近どこかで見た記憶があった。



 彼女は僕のギターケースを壁際に置くと、


「ナオミ君も荷物置いたら?」


 振り向いて言った。


「おう。何の大荷物かと思えばギターケースじゃなかね。麗美ちゃん、ギター始めたと」


「ううん。この人のギター。思案橋の入り口で唄いよって、今度ブルーハーツ覚えてもらう約束したとさ」


 約束まで交わした覚えはない。が、僕は無言でマスターに一礼した。すると、


「お兄ちゃん、こないだ甘栗屋の前でギター弾きよらんかったね」


 ああ、とようやく思い出した。あの時の「ウチの店に来んか」と誘ってくれた男性だ。


 妙な誘いじゃないかと勘繰っていた僕は気まずさを堪えて「その節はどうも」と場を濁した。が、男性は気にする様子もなく、


「で、今日は稼いだね。土曜日やけんよかったとじゃなかと」


 その質問には答えず、カウンターの丸椅子に飛び乗った麗美の右側へ座ると、窓の外のビルの灯かりがきれいだった。


 ふたりでビールを注文すると、シャンパングラスのような繊細なグラスにマスターがビールをふたつ注ぐ。その動きに見惚れていると、


「ナオミ君、乾杯」


「あ、ああ」


 差し出されたグラスを合わせると、夜は一層更けた気がする。


「ナオミ君ってさあ、もしかして家出中?」


 いきなり訊ねられてビールを吹きそうになったが、


「なんで分かるん」


「そのスーツ、膝の裏とかシワシワやし、雰囲気がもうね。二十歳くらいやろ」


 すべてを見事に当てて見せた彼女へ反論はなく、


「一週間、帰っとらん」


「じゃあウチに来んね。アイロンくらい貸してやるよ」


 麗美はマスターの聞いている中、平気でそんなことを言う。


「いいよ……自分でどうにかするから」


「ホントに? クリーニングもお金かかるよ? あたし、別に変な意味で言うとる訳じゃなかけんさ。親も帰って来んし、いつもひとり。だけん、誰か遊びに来てくれたら嬉しかとさ。それだけ」


 そう言うと彼女はバージニア・メンソールをくわえ、テーブルのキャンドルで火をつけた。


 しばらく沈黙が空気を埋めた。


 この気安い少女に言えることは少ない。自分自身、いったいどうしてこんな生活を――生活と呼べたとして――続けているのか分からないのだ。気分的には高校をサボって平和公園でスケッチを繰り返していたあの頃と同じだった。口うるさい母と、時折思い出したように怒鳴り散らす父のいる家に帰りたくはなかった。それだけだった。


 自分が責められるべき人間だということは分かっている。親元で暮らしながら、学校も行かない、仕事も長続きせず辞めてばかり、それでのうのうと暮らしている僕に兄弟だって内心不満を募らせているはずだ。そんな居心地の悪さだけを理由に、僕は家出を続けている。


「『リンダリンダ』、覚えたら教えてね」


 ポニーテールを揺らして麗美がグラスを傾ける。邪気のない目で真っ直ぐに見つめられると気後れしてしまうが、


「覚えたらね……」


 何とかそれだけ言うと、物静かだったマスターが割って入る。


「で、なに君なんかね」


「杉内直己です」


「そう。ナオミ君、よかったら今度の月曜にギター持って来んね。月一でイベントやっとってね、参加者が欲しかとさ」


 その誘いには躊躇う。


「まだ、あんまり弾けないんで……」


 しかしマスターはあご髭をさすりながら笑う。


「これも勉強さ。何にしても素人ばっかりのイベントやけんね。覚えとったら来てくれんね。七時には開いとるよ」


 そこへ麗美が口を挟む。


「あたしも顔出そうかな。ブルハも聴けるかも知れんし」


 そう言うと彼女は不意に立ち上がり、


「ナオミ君。家、案内するよ。一緒に行こう」


 そして壁際のギターケースを握った。当然という顔で見せるその仕草には返す言葉がなく、それだけのせいにして僕は勘定を払った。「よかよ、あたしの奢りで」という彼女に断って支払いを済ませた。小さなプライドだった。自分の飲み食いは路上の収入で賄うという意思の表れだった。


 エレベーターを降りると、


「風の気持ちよかねえ」


 麗美はタクシーの排ガスまみれの夜風を浴びて心地よさそうに瞼を閉じる。


 僕はリュックを背負い、ただただ彼女の足跡を辿る。何ごとも積極的に事を進めようとしない癖が、その行動を選ばせた。僕にとって何かを強く決意するのは、いつだって何かをやめる時だった。


「ここ、三階やけん隣のビルのカラオケとか朝までうるさかけど、まあ、気にせんで」


 両隣を飲み屋ビルに挟まれた細いマンションの入り口に立つと、麗美は軽く振り返りつつエントランスへ向かった。彼女はそう言ったが、親でもいたらどうしようかとそればかりが頭に巡っていた。


 が、案内されたのは真っ暗な室内で、


「ちょっと電気つけるけん待って」


 明かりがつくと八畳ほどの居間があった。部屋の隅に雑然とファッション雑誌が積まれ、テーブルの上には食べかけのピザがあった。


「ピザってねえ、頼む時はいちばん大きかやつ頼むとけど、いざ届いたらそんな食べきれんとさね」


 そんな冷めたピザをキッチンへ片付けると、彼女は何の未練もなく大きなゴミ袋へそれを投げ込んだ。


「ビールまだ飲む? あるよ」


「いや……缶コーヒーでも買ってくるよ」


 まだ入り口で呆然と立っていた僕はそう答えた。


「コーヒーなら入れるよ、インスタントやけど」


 彼女に促されるままリビングの白いソファーに座っていると、


「コーヒー。ブラックでよかった?」


「あ、うん」


「そうやと思った」


 麗美は何が楽しいのか、コーヒーを啜る僕を見ている。そして、


「彼女さん、おると?」


 僕は動揺を隠して答える。


「おるよ。二十二歳の彼女」


 それはある種の予防線だった。


「へえ……。年上って上手くいく?」


 彼女は少しばかり不思議そうにそう言うと、同じく淹れてきたコーヒーを熱そうに飲んだ。


「上手くっていうか……大人しか人やけん」


「じゃあ、あたしと違うね」


 そう言うと彼女は煙草に火をつける。それは優しく笑ったようにも見えた。


「誰も、帰って来んと?」


 さっきからそればかり気にしている僕に、


「来んよ。来る時はあたし追い出されるけん。母親が男連れ込むとさ」


 明け透けにものを言う彼女に耐えられず、僕も煙草に火をつけた。


 彼女は続ける。


「どうせ明日、日曜たい? 練習してサザンに行けば? 仲間も見つかるかも知れんし」


 仲間、と聞いて僕は学校のクラスメイトを思い浮かべる。そして、それは仲間と呼べる代物ではなかった。美術部ではなんとか仲間と呼べる相手もいたが、初めて出来た恋人以外に心を許せる相手はいなかった。その恋人すら、学校を辞めたら空中分解して終わりだった。別の高校の美術部長と付き合い出したと風の噂に聞いていた。


 麗美がいるのに別の女のことを考えるのは申し訳ない気がして、僕は彼女にまた訊ねる。


「いくつなん」


 どうでもいい話という訳ではなかった。二十歳の自分にとって、そこには大きな意味があった。


「あたし? 二十一歳」


 彼女がそう答えると、微妙な間が出来た。そして訊ねたことを後悔した。しかし彼女は分かりやすい笑顔に変わり、


「たったの一歳違いやろ。気にせんで」


 そしてコーヒーを啜った。


「あたし寝る前にシャワー浴びるけど、ナオミ君どうする?」


 立ち上がって浴室に立つ彼女へ、


「僕も入ります」


「敬語とか! 歳の話、ホントに気にせんで!」


 笑いながら彼女は浴槽へ湯を張りにゆく。


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