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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
57/272

57・(火)11月20日

          57(火)11月20日



「まだ寝てていいのか」


 珍しく僕が先に起き出すというシチュエーションの中、


「今日は十一時実習なんですよ。もちょっと寝せてください。あの日ってどうにも眠たくて」


 僕は寝起きにビールを流し込み、豚まん五個をレンジで温めた。高級中華料理よりも美味しく感じるのはなぜだろう。


(これをひとりで十個食べてしまったヤツもいたっけ)


 今後、何かにつけて彼女のことを思い出すことはやめられないとあきらめた。それは時間が解決してくれるだろうと、もう気にするのはやめた。


「おはようございます……」


 ボサボサの頭で起き上がると、那由多はポーチを手にトイレへ立った。


「朝からビール飲んれんれふか。ろんらけ酒まみれなんれふ」


 相変わらず歯みがき中の那由多はよく喋る。


 僕は日課になり始めている新曲ノートをテーブルに広げ、出来かけ、あるいは一行だけの唄い出しで終わっている歌詞をとりあえず全部忘れた。頭の中に降りてくるものがない限り、歌詞には結びつかない。


「歌詞、ですか」


 髪にブラシを入れた彼女が後ろから覗き込む。


「まあ、ボチボチやるよ」


「そりゃまあ頑張ってください」


 投げやりな応援が返ってきた。


「じゃあ、またギター置いてきますんで、七時前には来ます」


 ギターにマントを被せて彼女は言う。


「はい、行ってらっしゃい」


 那由多を見送ると午前十時だった。せっかく起きたので、ずっと替えようと思っていた弦を買いに楽器屋へ足を運ぶ。


 そろそろコートでも必要になって来たかと思うと、大きな出費は避けたかった。元々家賃のために日々貯蓄していた金は五万円ほどある。そこから捻出すればいいかと考えた。


 昼間のアーケードはオバちゃん率が高く、遠くまで見晴らしが利く。どこもかしこも人の頭ばかりだったが、その中にひときわ目立つスーツ姿の女性を見た。向こうからこちらへと歩いてくるのは春先まで付き合っていた理恵だ。長い黒髪は間違えようがなかった。


 僕はなるだけアーケードの端に寄り、目立たないよう背中を丸めた。五メートル、三メートルと近付いてくる彼女を目の端に入れ、息をするのも忘れた。


 今まさにすれ違うその時、彼女は間違いなくこちらを見た、見た上で、無感動に歩き去った。あっけない遭遇だった。まるで他人のようだった。


(そういうものかも知れない。僕が気にし過ぎているだけなのだ)


 ぽっかりと心に穴が開いたまま、弦を買い、部屋に戻った。インスタントラーメンを茹でて侘しく啜り、弦も替えずに夕方を迎えた。



今日から段ボール看板を新調した。

『長崎の皆さんお世話になりました このたび福岡へ移り住みます 杉内直己』


 気の利かない看板だと思いながら、ギターケースの底へ入れた。麗美と作ったデモテープも十一本ある。


 ボンヤリしていると七時になり、那由多を待たず慌てて荷物をまとめて外へ出た。すっかり暗く、冬の到来を目前にした街はクリスマスムードだけで賑やかだった。


 思案橋に着くと那由多の姿はなく、いつもの場所で準備を始めた。長場さんが通ったので、


「昨日はありがとうございました」


 立ち上がって礼を言うと、


「よかよか。最近は麗美ちゃんどうしとるね」


「ええ、バイトが多いみたいで」


 小さなウソが胸に刺さった。


「寒なるけんね、気をつけて」


「はい!」


 演奏は変わり映えのしない尾崎から始まった。ファーストアルバムの中でもお気に入りの『傷付けた人々へ』だ。


 そんな歌を唄い終えると、手ぶらの那由多がやって来た。カラフルなマントも羽織っていない。ベージュのコート姿の彼女は普通の大学生のようだ。


「差し入れ忘れましたけど、何かいりますか」


「じゃあ、ウイスキーポケットボトルで」


「女子にはハードル高いですね……分かりました。ビールと一緒に買ってきます」


 点滅信号を向かいに走り始めた那由多があっという間に人波に消える。


 二曲目も尾崎かなと、最近試してみたかった「Driving All Night」のスローバージョンを唄い出してみた。基本、僕のギターは半音落としたチューニングで、そうしなければ複雑なコードを弾くことは出来なかった。福岡に行けば「出来ない」ですまされないのだろうと思えば胃が痛かった。仮にもプロを目指してゆくのだから。


 唄い出しを原曲からテンポを落として唄っていると、コンビニ袋を下げた那由多が戻ってくる。


 那由多は目を細め、ガードレール側で歌を聴いている。そして微動だにしなかった。


「今のナオミさんらしくないですね」


 買い物の中身を取り出すと、自分は缶チューハイを開けて言った。僕はビールを開け、


「尾崎のロックナンバーなんだ。テンポをスローに変えてある」


「ロックって……何なんですかね。皆、平気で言ってますけど」


「そう言う難しい話は今度しよう」


「はあ……」


 そこへやって来たのは大工の船水さんで、


「大将! やりよるか!」


 僕は立ち上がって、


「ライブありがとうございました。お蔭で緊張せずにすみました」


「なんでんよかさ。お、今日は違うお姉ちゃん連れとるとか」


 那由多を振り返りつつ言うので、とっさに、


「ミュージシャン仲間です」


 と釘を刺しておいた。そういえば船水さんは那由多の出番前に帰ったのだった。


「まあよかよか。今日こそチェッカーズば唄うてもらわんばな」


 僕はそのために買った歌謡全集最新版を開き、『ギザギザハートの子守唄』を唄った。ぶっつけ本番だった。


「きたきた! これば待っとったとばい! 今日は百点じゃ!」


 そう言うとケースに千円入れ、


「ん? 福岡へ移り――兄ちゃん福岡行くとか! ついにデビューじゃなかろうね!」


「まあ、まだデビューと決まってる訳じゃないです。向こうで勉強したりライブしながら活動を広げていけたらと思います」


「そうかそうか。まあ寂しゅうなるけど頑張って来い。これは祝儀たい」


 そう言ってケースへ五千円札を追加した。


「ありがとうございます」


「おう! 長崎忘るんなよ!」


 船水さんが去ってゆくと、


「こっちの人って不必要に賑やかなんですね」


 那由多がチューハイ片手にやって来て、


「デモテープっていくらなんです」


「気分的には二百円だけど――」


 五百円、と麗美の話が出そうになって慌てて口を閉じた。


「じゃあ私、一本もらっときます。それから青春の一ページにします」


 笑みも見せず、カセットテープを一本ポケットへ入れた。


 八時になり、那由多の言う賑やかな集団が次から次へ押し寄せる思案橋入り口で、僕は『卒業写真』を唄ってみた。那由多が唄っているのを聴いていいなと思った曲だ。ただしキーは全開にして、あえてしつこいビブラートにしてみた。


「どう思う?」


 ビールをウイスキーに持ち替えて彼女へ訊ねると、


「ありだと思います」


 短い答えが返った。


 ここからは尾崎と長渕のコンビネーションだなとハーモニカをつけると、


「お兄さん、何が出来るんですか」


 と珍しく若い女性二人が声をかけてきた。


「尾崎豊が多いんです」


 そう答えると、


「ハウンドドッグとかダメですか」


 それは兄貴のレパートリーだと思いながら歌謡全集を開くとあった。


「『涙のバースデー』とかならありますけど」


「あーそれ好きー」


 ということで人生初のハウンドドッグを唄ってみた。こんなに暗い曲だっけと思いつつもワンコーラスを唄い上げると、


「よかったー」


「またねー」


 女性客は百円玉を一枚ずつ入れて銅座方面へ向かった。


 それが終わると男性集団がやって来て、


「サザン! サザン唄うて!」


 またもや歌謡全集の出番で、


「『YaYa』唄います」


 そう言うとイントロから盛り上がった。基本的に静かな歌なのだが、男五人で大合唱しているので傍から見ると阪神優勝セールにしか見えない。


「兄ちゃんよかった!」


「ようやった!」


「頑張れ!」


「また来るけんな!」


 ひとりは逆さに財布を開いて小銭をばら撒き、ひとりは千円札を投げ、思い思いにケースを埋めて銅座へ繰り出していた。


 ガードレールの那由多は、不思議なものでも見るように僕を見つめている。


「それ全部、ナオミさんのレパートリーなんですか」


「いや、初めて唄う歌ばっかりだった」


 僕はウイスキーを喉に流す。


「コード書いてるんですよね」


「あるけど見ると間違えるから歌詞だけ見てる」


「……」


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