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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
54/272

54・(日)11月18日

          54(日)11月18日


「いやあ、緊張するばいあの人の相手は!」


 そんな声から乾杯はスタートした。本石灰町に近い個室居酒屋の片隅で、同じく僕もため息を吐いた。


「こっちの出方次第で目付きが変わるんですもん。怖かったですよ。『福岡に行きます!』ってもろ手を挙げなきゃ収まらないのかと思いました」


 須藤さんの勧めでもつ鍋を頼み、その間に長崎近海で獲れた旬の魚の刺し身をつまんだ。刺身醤油に脂がぱっと広がるほど脂の乗ったブリが甘くて美味かった。


「ようやくで物を食べてる気がします」


 僕が言うと須藤さんも笑ってうなずき、


「音楽の世界も上下は複雑に存在しとってね。俺は落合さんには一生頭が上がらんとよ。始めてのライブも博多からロックの大御所ば呼んでくれてね。福岡時代には何かと目ばかけてくれてさ」


 食事は須藤さんが勧めるので熱燗と共に進んだ。


「俺は三日間、子供とカミさんの顔見とらんよ。この業界選んだ時からあきらめとったけどね」


 お猪口を手に自虐的に笑う須藤さんへ、僕もまた心境を打ち明けてみようかと思った。僕の拙い歌をこんなにも理解し、応援してくれる彼を信用しようと思ったのだ。


「ほう。あのマネージャーさんね。そうか。じゃあ会ってなか訳たい。共心会の名前は俺も聞いたことあるばってん。今どき許嫁ねえ、へえ」


 感心しながら僕の猪口に酒を注ぐ須藤さんに、


「これを機にここを離れようって考えてる自分がいるんです。でもそれは長崎を忘れるためっていう不純な動機になってしまいそうなんです」


「そうやねえ。でも杉内君、どのみち今のアパートは今月で出る訳やろ?」


「はい……」


「新しく部屋を借りる余裕もない」


「はい……」


 もちろん麗美の父から預かった金の話はしない。


「それはもしかしたら天啓かも知れんね。君がどこまで、どんな音楽を貫くにしても、レベルアップは必要かよ。君は今ある意味行き詰ってる。そこに、破格の好待遇で君を迎えようとしてくれる人がおる。これは天が授けたタイミングかも知れん。そう思ってみるのもよかとじゃなかかなあ。おっ、もつ鍋がいい感じばい。食べよう」


 もつ鍋は中華よりはるかに美味しかった。シメは雑炊ではなくちゃんぽんがいいのだと、須藤さんは店員にそれを頼む。


 そのタイミングで火をつけた須藤さんに、僕も煙草を出した。


「このままで君が音楽業界に残れるのは、今のところ四十パーセント」


 須藤さんが煙を吹かして続ける。


「ナスティに行けば、それが七十パーセントにはなる。これは太鼓判押してよか」


 無言でうつむく僕に、須藤さんはちゃんぽん玉を鍋に入れつつ説得を繰り返す。


「福岡でもストリートは出来るよ。中州に行けばたまに見かける」


 僕は押し黙る。


「君の歌を聴いとるとね、どこかへ旅に行きたい気持ちが溢れて見えるとさ。なら、その手始めに福岡に向かうともよかとじゃなかかな。福岡、大阪、名古屋、東京。これはミュージシャンなら誰でも押さえておくべき地域やけん」


 心の中を見透かされたのか僕の歌詞がそう聞こえたのか、それでも須藤さんの言葉は胸に刺さった。


「君はナスティに行けばそれで自分の人生は終わると思っとる。たかが二十歳で。でも実際はそうじゃなか。すべては始まりさ。ライブが決まればチケット売りに奔走せんといかんし、そのためにバイトやストリートで人脈を作ることもいる。バンドメンバーとの打ち合わせもある。癪に障るやつも話の合わん奴もおる。それはすべて、一般の人たちが積み上げていく日々の苦労と何も変わらんとばい。俺はね、路上ばっかりで甘やかされてミュージシャンぶってるやつらが大嫌いさ。そんな中で、君だけは人生経験として、そういうことも見てきた方がいいと思っとるけど。歌は着実に伸びるよ。それは間違いなか。そういう場所やけん。だけんが君はやり直しの利く四年でも五年でも期限をつけて、福岡に行ってみらんね。もったいなかと思うとるとばい」


 鍋の煮える音が静かに響くと、須藤さんは先の熱弁を忘れたようにフタを取り、熱つつ、と声を上げている。


 親にしても、学校の担任にしても、今までここまで親身になって僕の行く末を語ってくれた人はいなかった。そういう意味で、須藤さんには感謝した。


「ほら、ちゃんぽん出来とるぞ。食べんね」



 須藤さんの飲み直しはまだまだ足りなかったらしく、


「俺はもう一軒寄るから、気を付けて」と銅座へ消えた。時計を見ると八時前だった。


 今日ばかりは唄わないと決めて思案橋を抜けると、ガランとした舗道がどこまでも続いていた。


 半年前から座っているビルの角に立ち、信号機と、横断歩道と、流れてゆく車のライトをやや感傷的になりながら見ていた。たった半年。けれど僕には何物にも代えがたい半年だった。その地を離れる決意をしなければ、この先僕には何も待っていないのだろうか。


 ギターを抱えてアパートへ着くと、一気に気が抜けて布団に倒れ込んだ。気疲れというのは厄介なものだ。


 そこへ不意にドアチャイムが鳴った。すっかり那由多だと思い込んでいた僕は、


「せっかくの合鍵だろ……」


 と呟きながらドアを開けると、


「ごめん……今、迷惑やったかな。ストリートにもおらんかったし……」


 清楚な白いニットのタートルネックに同じく白いコートを羽織った麗美が立っていた。


「なんで……」


 その先が続かない僕に、肩にかかる素直な黒髪を揺らして答えた。


「なんか、困ったことないかなって思って。まだ二週間あるし……」


 心の中では夢にまで見た彼女が、現実のものとしてそこに立っている。今すぐにでも両肩を抱きたい衝動を押さえ、中へ招き入れた。


 最近では僕が使っているクッションへ座ると、彼女は寂しげな顔でずっと笑っていた。


「もうね、会えんと思うとったけん」


「けど部屋の引き払いとか、残っとるし」


 どうでもいい返事を返した。


「三十日は朝十時から業者さんの来るよ。全部任せて、運び出しの終わったら鍵を不動産に持っていけばよかと思う」


「そうか」


 呆けたような時間が過ぎる中、大事なことを伝え忘れていた。


「俺ね、福岡に行くことに決めたよ。向こうのプロデューサーの人にも会って、今日も話した」


「そう、よかったね……あたしもしばらく福岡やけん、会えるかも知れんね」


 麗美はまた寂しそうに笑った。しかし会える訳がない。この未練を断ち切るために僕はそう言ったのだから。


 僕はコーヒーも出さず、煙草ばかり吸っていた。会話もなく時計だけが進んでゆく。


 九時半になり、


「このお金なんやけど、やっぱり返しておいて」


 カラーボックスの封筒を渡すと、麗美は首を横に振った。


「よかとよ。せっかく出来た部屋ば追い出すごとなったとやけん。お願いやけん受け取って」


 そうやって押し付け合っていると、ドアの方で不穏な音がした。ガチャリ、という音は鍵が開いたことを教えた。


「ふう。今日は唄いに出なかったんですね。ようやく合鍵の出番が――」


 いつもの調子の那由多が部屋を見て呆然とする中、麗美が立ち上がった。


「あたし、帰るね。もう、じゃましに来んから」


 震える声で言うと、玄関先の那由多とすれ違う、だけのはずだったのだが。


「ごめんね。ナオミ君と仲よくね」 


 そう言って靴を履きかけた彼女に、


「ふざけないでください! 私のこと不用品引き取りみたいに思ってるんですか? だったらちゃんとナオミさんと別れてください! 今、ここで!」


「おい那由多、いいから」


 僕も立ち上がったが、そこにはいつだったか「おふたりのこと応援してるんです」と言った那由多の姿はなかった。


「いいえ、やめません。ナオミさん、彼女の亡霊にずっと憑りつかれて生きてくんですか? 私が許しません! 他の誰が許しても私は許しませんから!」


 ギターを担いだまま、那由多は憤慨している。確かに僕も麗美も心地よさに任せて、どっちつかずの思いばかりを相手に向けてきた。そのツケが今回っているのだ。


「あたし……ナオミ君とはもう何でもないから」


「だったら、そんな顔しないでください」


 数秒の睨み合いが続き、麗美は那由多のギターを避けるようにして表へ出た。


「追っかけなくていいんですか」


 那由多は憮然とした表情を崩さず、部屋に上がると言った。


「いや、いいんだ。それより俺、福岡に行くことに決めたよ」


「そう……なんですか」


「どのみち、このままじゃホームレスミュージシャンに逆戻りだしね」


「……ちょっと寂しくなりますけどね。長崎の街が」


「そんなことないさ。長崎には日向那由多がいる」


 軽口を叩いたつもりが、彼女は涙を滲ませて言った。


「私だって寂しくなります……せっかく……せっかく」


 その涙を止めるためだけに背中へ手を回したが、彼女の涙はいつまでも僕の胸を湿らせた。


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