51・(土)11月17日
51(土)11月17日
「だから……! 優しいのがいいんですって! くっ……」
そう言いつつ、彼女はすべてを任せてくれた。二度目のセックスは一時間がかりで終わった。
「自分本位……自己中……」
那由多は不満そうに下着を履いていたが、身体の反応はよかった。絶頂の瞬間に反らした身体がきれいだと思った。
それからしばらく口付けを交わしたあと、
「まるで恋人同士みたいです」
呟いた彼女に、
「なんだと思ってた」
そう訊ねると、
「期待するからやめてください」
背を向けられた。
これですべて吹っ切れた。とは言えない。麗美への何かしらの思いが消え去らない限り、那由多の質問には答えられなかった。
やがて彼女は無防備に眠りにつく――。
僕は僕らしくあるために家を出た。そして手にしたものが唄うことだった。そこに後悔はないものの、相変わらずしがらみはついて回る。自分が蒔いた種と思えば思うほど、刈り取ることも出来ずほったらかしだ。言うなれば、手落ちだった。瞬間の温もりや享楽に振り回されて、結局のところ僕は何にもなれていない気がする。大事なものを守るという、その力がないままに生きている気がする。このままではきっと、那由多にも愛想を尽かされるだろう。そしてそうなった時に僕はようやく気付くのだ。
眠りに落ちた那由多の髪を撫でれば、同じ思いを麗美にも抱いていたことを恥じた。ただひとつ、慰み物でもいいと叫んだ那由多のことをこれ以上傷つけたくはない。人を傷付けて、初めてそれが分かった。
「明日、行くんれふよね」
歯ブラシを動かしながら那由多が言う。
「なんか気乗りはしないんだけどさ。須藤さんの話だし行こうかなって」
「違いまふよ、菅原はんのはなひれふ」
「とりあえず歯みがき終わってからにしてくれないかな」
須藤さんの話によると、この間の菅原さんがブレインを連れてくるということだった。つまりはオーディションなのだ。前回の話に上がった福岡行きのチケットを手にするかどうかの一日になるという。あくまで僕と那由多がその話に躊躇している旨は告げたらしいが、菅原さんの上司が興味を持ったということだった。
「だから、一緒に行こうと思って」
旅行用歯みがきセットをバッグに仕舞い、那由多がそう言う。一緒に行く意味があるかどうかは別として、それはそれで構わない。
「日曜って昼まで寝てる時が多いから早めに来て起こしてくれたら助かるんだけど」
「目覚ましあるじゃないですか」
「電子音っていまいち目が覚めないんだよ。それよりひとり暮らしの部屋に鳴り響く玄関チャイムの方がぞっとして目が覚めるんだよ」
「……十一時に来ます」
「そうか。じゃあ、これ持ってて」
麗美しか持っていない合鍵を渡した。すると、
「いいんですか、合鍵なんて恋人同士の――」
「ああ、そういうのいいから持っててくれよ。信用してるから」
「……はい。じゃあ」
鍵を握って立ち尽くす彼女をそのままに、僕は布団へ戻る。いつもの二度寝だ。これで彼女が帰ったあとに鍵を閉めに行く手間が省ける。その時はそれくらいにしか思っていなかった。
午後の二時過ぎに目が覚めて、とっさにノートを開いた。夢の中の記憶が消えないうちに、懸命にペンを走らせた。
――降り続く雨はなく いつかまた歩き出す
――傷ならば出来るだけ 見せぬよう笑いたい
――気になるのはいつも始発と最終だけで 野良猫ばかりのこの道で朝を待つ
――誰も皆少しだけ 間違えてしまうから
――裏道は今日もまた ささやかに渋滞が続く
出来かけの新曲に『ささやかな渋滞』と名付けたのはその時だった。那由多の言う一割の閃きの方に賭けてみた。
夕方までかけて考えたことは、香坂家の実家をどうにか探せないかということで、理由は五十万円のけりのつけ方だった。浮かんだのは不動産屋のお婆さんで、僕は手ぶらで現金だけを懐に入れ、イズミ不動産へ出かけた。はいいが、肝心な理由が見出せない。
ままよ、と入った不動産屋にいたのはやはり白髪のお婆さんで、僕を見るなり、
「あんた、たった一カ月で出て行くとね。香坂さんから聞いとるばってん」
と見透かされていた。
「色々ありまして。でも、一カ月でもお世話にはなったんで挨拶だけはしておこうと思うんです。それで、香坂さんのご自宅を教えていただけないでしょうか」
頭を低くして言うと、
「あんたのごたる得体の知れん輩に教えられるもんかね。お嬢さんにも話せん訳のあるとじゃろう。お引き取りください。なんも教えられることはなかですけん」
柄杓で水をかけられたような対応だった。賃貸借契約書は麗美の手元にある。
そこで思い浮かんだのは麗美のマンションだった。エントランスの郵便受けはダイアル式のもので、そこに置いて来るのはどうかという案だった。が、五秒でその思いつきは消し去った。物騒にもほどがある。
まだ那由多も出ていない夕暮れのくろがね橋をぶらぶらと歩く。よくぞここを選んだというこのメインストリートで、彼女は何を思い唄い始めたのだろう。その勇気には頭が下がる。
アパートに戻り、結局行き場のなかった封筒をカラーボックスの二段目に置く。不動産屋のお婆さんに言われたひと言が、
――「あんたのごたる得体の知れん輩に――」
何気に堪えていた。
夕暮れを待つまでに煙草を三本吸って、冷蔵庫のバドワイザーを一本飲み干して街へ出た。今日は土曜日だ。
須藤さんの言葉に救われた気持ちを胸に、今夜も尾崎豊でスタートした。興味のない人間に合わせて唄うほど器用でもないし、何よりそんな暇もない。ストリートは一か八かの真剣勝負だ。こっちのエサに釣られればよし、そうでなくとも振り向けば僕の勝ちだ。
七時から三十分が過ぎた頃、そういえば唄ってなかったなと『いちご白書をもう一度』を唄ってみた。どうにも那由多のイメージが強くなって避けていた歌だ。
すると、
「懐かしか歌ば唄うとるねえ。ちょっと寄付して行こうや」
立ち止まった男性が財布の小銭を空けると、同行していた二人もそれに倣って笑いながら柳小路に入って行った。柳小路へ向かう客はそういった人たちが多い。
九時になると思案橋付近は人通りに溢れ、土曜日らしい人出になった。
稼ぎ時だと思いつつも選曲は固く、須藤さん絶賛だった『二人歩記』を唄っていると、
「お兄ちゃん!」
と気安く近付く人影があった。歌を途中でやめるのは不本意だったが、その表情を信じて演奏を止めた。すると、
「今ね、近くの店に行くとやけど、そこで生演奏してくれんかね」
という、珍しい出張演奏の誘いがあった。でもこれで生活してますんで持ち場を離れるのは、という言い訳を口にする前に、
「五千円出すよ! 来てくれんね!」
その言葉に乗って荷物をまとめた。
柳小路を抜けて二分。その客が立ち止まったのは『レノン』という赤い看板のスナックだった。これはビートルズ系かと思わせておいて、店へ入ると、
「いらっしゃーい!」
石川さゆりの『津軽海峡冬景色』のカラオケで迎えられた。
「お兄ちゃん、なんば飲むね」
ボックス席に座らせられた僕は、遠慮なしにビールを頼む。
「石山さん珍しかー。こちら、音楽の人?」
「おう、そこで拾うてきた。この人に唄わせてくれんね」
「じゃあカラオケ終わったらでいい? ちょっと待っとってね」
ママと思しき女性はマキシスカートの腰をくねらせてカウンターに向かった。
男性は石山さんという名前で、吉田拓郎のファンらしかった。そのレパートリーがないと僕が告げると残念そうな表情を見せたが、
「あれはどうね。『飲んでー飲んで―』いうやつは」
それならば唄えると了承すると、やがてカラオケがやんだ。僕はギターを取り出して譜面をテーブルに置く。
「いいよー、お兄ちゃん唄うてー」
カウンターの中で明るい顔のママさんが頭の上で丸印を作ると、カウンターのお客さんも静かになった。僕はギターのイントロも適当に唄い始める。
すると待ち構えていたかのように、
「飲んで~飲んで~」
カウンターのお客さん共々、顔を赤らめた石山さんも一緒になってサビを唄い始めた。
一曲終ると店の中の一体感はすさまじく、
「お兄ちゃん! 『順子』唄うて!」
「『チャンピオン』唄うてくれんね!」
春から覚えた日本の歌謡曲が連続でリクエストされた。
二時間後ギターから解放されると、石山さんは満足げに握手を求め、
「いやあ、またあそこで唄うとってくれんね。また呼ぶけん」
そう言ってあとは一緒にウイスキーの水割りを飲んでくれた。
帰り際、
「お兄ちゃんよかったー。長崎にもこげん人のおるとねー。儲かったらいつでも遊びに来てね」
お礼のポチ袋を差し出したママに言われた。石山さんはタクシーで帰るらしく、思案橋で別れたが、石山さんにもらった五千円と店内のあちこちからもらったチップで実入りは一万二千円だった。
時計を見ると十一時半で、今日はこれで上がろうとアパートへ向かった。




