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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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5・(金・土)5月18日~19日

          5(金・土)5月18日~19日


「ワイな、松山千春もよう弾けんで流しばしよっとか! こら!」


 時刻は八時を回ったところだった。僕が唄っていると二人組の男が足早に近付き、ひとりがギターケースを蹴り上げた。


「すみません……勉強中なんで」


「なら帰って勉強せんか! 今度こげんところで商売しよったらぶち回すぞ!」


 いつにない荒々しいスタートに成す術もなかった。見た目だけを大人ぶっても腕力勝負になると劣勢なのが僕だった。


「なんばノロノロしよっか! 早う片付けろ!」


 そんな勢いで言われてしまっては片付けに入るしかなく、もうこの場所では唄えない、と思っていたところに、


「ナオミ君。テープ持ってきたよ」


 遠巻きに騒ぎを見ていた人波を割って入る少女がいた。麗美だ。


 二人組の男はしゃしゃり出てきた彼女を睨むと、


「姉ちゃん、男同士の話やけんが向こう行っとってくれるね」


 が、彼女は構わず。


「香坂麗美。その名前だけ覚えて帰らんね」


「はあ?」


「共心会会長、香坂源三の娘。文句あるならオヤジに言うて。あたし、この人のファンやけんさ」


 麗美が憮然とした顔で言うと、男たちは小声で囁き合い、どちらからともなく去って行った。そして去り際に、


「ワイな、嘘やったら指詰めるぞ!」


 遠吠えのように叫んでいた。


 なんとか血を見る間もなく解決した騒ぎに、遠巻きだった群衆も去って行く。その薄情さに苦いものを感じながら、


「あの、ありがとう」


 僕は椅子から立ち上がって彼女へ頭を下げた。


「別に。気にせんでよかよ」


 どう取り繕っていいか迷っている僕に、彼女はカセットテープを手渡す。


「約束したろ? ブルーハーツ、聴いてね」


「あ……うん」


「じゃあ、今日はこれで帰るけん。頑張ってね」


 背を向けた彼女は、再び雑踏の中に飲まれた。短いポニーテールが左右に揺れて、それは僕に手を振っているように見えた。


 その後は平静を取り戻し、見慣れた路上風景になった。ただ、金曜日の本番はどうやら十一時を回ってからで、幾度となくリクエストを受けた。そのほとんどに答えられなかったが、聴衆は僕の唄う尾崎豊に満足した顔を見せ、チップを入れていった。


 千円札が五枚になったところで今夜のお開きにすることにして、僕はギターをまとめた。あの男たちが戻って来たら今度こそなす術もない。暴力に屈するのは不本意だったが、僕には麗美のように啖呵を切る勇気もない。


(キョウシンカイか……やっぱヤクザかな)


 それを思うと彼女と親しくなるのが躊躇われた。もらったカセットテープには、手書きでタイトルが書いてあり、B面のラストの曲が二重丸で囲んであった。『リンダリンダ』という、知らない曲だった。


 土曜日は、早朝からサウナで下着と靴下の洗濯をした。昼間の雑踏が嫌いで大波止の近くで海を眺めて過ごした。手持ち無沙汰で聴いているのは麗美からもらったカセットテープだ。パンクロックというのか、尾崎豊のメロディに慣れた僕にとっては聴きづらい曲ばかりが多かった。ただ、彼女が二重丸で囲んだ曲だけは歌詞カードを読みながら何度も巻き戻して聴いた。ドブネズミみたいに美しくなりたい――と始まるその歌を彼女に披露出来る日が来るだろうかと思えば、何が何でも覚えてやるという決意に変わる。


 日暮れ前。夕方になると肌寒く、潮風を纏ったまま街中に戻り、マクドナルドでテリヤキバーガーのセットを頼んで時間を潰した。その頃、禁煙席と喫煙席の区別はなく、皆、思い思いの席で煙をくゆらせていた。


 空いた三階席の窓際で、やっぱりウォークマンを聴いていた。フロアの隅にあるコンセントを使い、バッテリーを充電しながら聴いた。


 コーヒーを二回お替りしたところで店を出た。昨日の二人組の男が気にはなっていたが、それに負けるのが悔しくて僕はギターケースを握りしめて思案橋に向かった。時刻は午後七時を回っていた。


 そういえばあまりハーモニカを吹いていないなと、一曲目はDのハープを使って『シェリー』を唄った。僕は譜面は読めないし符割も分からない。ただ、ハーモニカはギターより先に感覚的に覚えた。キーさえ合っていれば不協和音が出ないということもハードルを低くしていた。ただ、そうやってハーモニカを吹いていると、


「お兄ちゃん、長渕剛は出来るね」


 というリクエストに溢れるのが困りものだった。世間のイメージでは、首からハーモニカホルダーを下げて唄っているのは大昔のフォークシンガーか長渕剛だったのだ。


(これはブルーハーツより長渕の方が先だな)


 そう考えると、一度家に戻って兄貴のレコードをダビングするのも手だった。


 昨日より人出の多い思案橋近辺は、信号待ちの群れが出来ている。その中にチラホラこちらを振り返る人があり、僕はその度に頭を下げていた。そして横断歩道が青に変わり、向かいから歩いてくるのは赤いキャップの麗美だ。


「どうやった?」


 開口一番そう言って、彼女はコンビニの袋を揺すった。ブルーハーツのテープの話だろう。


「まだ、覚えきれなくて……」


 そう答えると、


「よかよ、いつでも。これ今日の差し入れ」


 そう言ってバドワイザーの缶を放った。そしてそのまま観客に回った。僕はバドワイザーを開け、ひと口飲んでから次の曲を探った。


『ドーナツショップ』というその歌は黄昏時が似合うお気に入りの曲だ。ただ、ラスト何小節かがすべて語りになっていて唄いづらい曲だ。なのでその辺はすっ飛ばして唄うことにする。


 曲が終わるも、麗美は上の空でビールを飲んでいる。やはりリクエストのブルーハーツを覚えるべきなのだろうか。


 そんな彼女が不意に、


「ナオミ君、今夜ヒマ?」


 そう訊ねてきた。


 暇だけはあり余っている。ただ、今は目の前の演奏に集中するしかなく、


「稼ぎが入るまではちょっと……」


 何らかの誘いであることは明白だったが、煮え切らない言葉を返した。今夜の稼ぎはまだ二千円ほどだ。宿代にも足りない。あれだけあったパチンコの勝ち分も残り二万五千円だ。今の自分に出来るのはここでチップを稼ぐことのみだった。


「じゃあ、またあとで来るけん。頑張って」


 彼女はそれだけ言うと、思案橋を越えて飲み屋街に消えた。


 麗美がいなくなって二時間。穏やかな時間が過ぎていた。じっくり聴き入る人もいない代わりに、通りすがりに「頑張ってね」と小銭を入れてくれる人も多かった。


 十二時を回ると勢いのついた集団が何組も通りがかり、尾崎豊のレパートリーでも対処出来るようになった。それらを全部送り届けると一時になっていた。


(来ないのかな……)


 彼女のことを気にしながらギターをまとめていると、


「終わった?」


 思案橋の角を曲がってくる彼女が見えた。それから、


「どうやった。稼ぎは」


「まあまあ……」


「ふーん。その割に暗かね」


 会話は僕の店仕舞いで途切れてしまったものの、


「今から飲みに行かん? 奢るよ。ブルーハーツの先払い」


 いいよ、と否定のつもりで答えたが、彼女は了承ととらえ、僕のギターケースを抱え上げる。


「憧れやったとさ、ギター持つと。結構重かとやね」


 断り損ねた僕は、


「ケースが重いから……」


 と答え、彼女のあとをついて行く羽目になった。


「小さかバーやけん。そげん気にするとこじゃなかよ」


「うん……」


 不意に恋人の理恵のことが頭を過った。駅前のホテルで会って以来、連絡をしていなかった。きっと家に電話して僕が帰っていないことはもう知っているだろう。そしていったい今のこの光景を見たらどう思うだろう。


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