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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
43/272

43・(水・木)11月7日~8日

          43(水・木)11月7日~8日



 午後十一時を回って、千鳥足の麗美が思案橋に顔を出した。


「酔った……」


 見れば分かるが珍しいことだった。


「大丈夫? 一緒に帰ろうか?」


 すでにギターケースのチップをまとめている僕に、


「平気。だから『西高東低』唄って」


「けど――」


「大丈夫だってば!」


 仕方なく、という不本意な姿勢でギターを構える。彼女はスローなリズムで左右に揺れる。僕は子守唄を唄うつもりで唄い聴かせた。


 ――ポケットのウイスキー空けたら もう一度雪を待とう

 ――白い朝が東へ戻り 冬が街を離れる頃に

 ――チケットの行き先忘れたら まだ君に会えるけれど


「帰る」


 歌が終わるなり立ち上がった彼女は、僕が止める間もなく銅座へ歩き始めた。


 僕は慌ただしく荷物をまとめ、すんでのところで彼女へ追いついた。


「麗美!」


「ちょっと待って……」


 そう言って電柱の陰に走った彼女は背中を丸めて吐いた。僕は近付いて背中をさする。


「ごめん……ゲホッ……少しだけ飲み過ぎて……エホッ」


 二分後、落ち着いた様子の彼女に肩を貸し、慣れたマンションへ辿り着いた。


 家に帰ると彼女は水をがぶ飲みし、そしてまたひと言、


「ごめん――」と呟いた。「時々ね……すごく飲みたくなる時があるとさ」 


 僕はキッチンに立ち、


「コーヒー、ミルク多目で淹れようか」


「うん」


 ヤカンに火をかけ、お湯が沸くのを待つ。


「もう、その姿も見れなくなるとやね」


 そう言ってソファーにもたれる彼女が、とても遠くに見えた。僕はレンジで温めたミルクを取り出し、インスタントコーヒーをひと匙入れたカップへ注ぐ。


「ありがと」


 スウェットに着替え、毛布を背中から被る彼女が熱そうにカップを吹いている。山小屋の光景のようだ。


「あたし来週ね、その人に会うと。もう何回か会ってるけどね」


 その人、というのが僕の予想通りなら、事態は限りなく近づいているのだろう。


「あたし、いらんことしたね」


 カフェオレをひと口飲み、彼女がテーブルを挟んで僕を見た。


「どうして……」


 思っていることを何でも口に出すのは大人じゃない。そう思った。その訳を聞かないことも大切なのだ。


「ナオミ君、どこか行きたかとやろ。長崎に縛りつけるごたる真似してごめんね」


 今日の麗美は「ごめん」が多い。


「歌の話やったら……あれは流れで出来た曲やけん。気にせんでいいよ」


「福岡の話はどうすると」


「あれは――」


「迷っとる? ただね、なんの意味もない話やけど、あたし結婚したら東京に行くことになるとさ。博多で七件クラブば持っとる社長のボンボンでね、東京にもお店出そうって思ってると。ウチの父親は昔からそこに出資したり懇意にしとるけど、あたしには全然関係なか話やし」


 寂しくうつむく彼女にかける言葉はなかった。


「ナオミ君さ、福岡行った方がよかよ。その力はあるって認められたとやけん」


 菅原さんの評価は確かに嬉しかった。これまでのストリート活動が実を結んだものだと手放しで喜べるものだった。しかし、自分の中に明確な意思がないまま流されるように福岡へ行っても多勢の中に埋もれてしまうだろう。


 そんな中、頭に浮かぶのは思案橋の街角だ。僕が唄いたいのはやはり、あの場所なのだ。酔客と笑い合い、差し入れにビールをもらい、チップをもらい、それはそれは狭い世界なのだろうが、あの場所以外で唄う自分を僕は想像も出来ない。そしてその上で旅にも出たいという相反する衝動が入り混じっていた。僕は自分のことがよく分からない。


「俺は、今の場所を動く気はないよ。じゃあ俺、部屋に戻るけん。明日また」


「戻るって――」


「そのための部屋やろ」


 そう言うと、立ち上がりかけた彼女を挫いた。


「ナオミ君、行かんで。ここにいよ? ね?」


 それを聞かなかったことにしたのは多少なりとも憤りがあったからだ。彼女には感謝しきれないほど世話になった。けれど結婚するなんて聞いていなかった。それを知っていれば、まだ保つべき距離感があったはずなのだ。それを隠していた彼女に不服を感じていた。



 築町市場に向かう肩を叩いたのは、那由多だった。


「こんな時間までやってたの?」


 時刻は十二時半だ。彼女は不機嫌そうに僕を見上げ、


「バスも最終終わりましたし、部屋行っていいですか」


「ちょ、こないだは勢いで、それに男女だし」


「同志でしょ。助けてくれてもいいじゃないですか」


「分かったから、何か買って行こう」


 麗美との重い話をするよりはこちらの方が楽だと考えて、渋々を装い承知した。最近の僕は楽な方へ流れようとしている。昔と同じだ。


「え、これ全部買ったんですか」


 部屋に入ると物に埋め尽くされた四畳半を見て那由多が驚いた。


「俺が買ったんじゃないよ」


「じゃあ……彼女、何者なんです? これっていわゆるヒモって状態ですか」


「それも違う。とにかく上がって」


 玄関先に荷物を置くと、


「おじゃまします……」


 そろりそろりと彼女が部屋へ入って来た。麗美のクッションを出すのは気が退けて、僕の分を渡した。


 テレビもないので静かだ。お互いの衣擦れの音がやけに大きく響く。


「煙草吸ってもいい?」


 今さらな話だ。


「ええ、お父さんが吸ってるんで別に気にしません」


 ピースライトに火をつけると、


「私、チューハイもらいます」


 那由多がテーブルに置いた巨峰サワーの缶を取った。そして、


「思案橋まで行ったんですよ」


 不満そうに缶を開けた。


「なんで?」


 僕は素直な思いを口にする。


「近況報告です。他に……意味はありません」


 僕も缶ビールを開けるとひと口飲んで大きなため息を吐いた。


「なんですかもう。そんな嫌だったらタクシーで帰りますけど」


「いや、悪い。考え事があってさ」


 またひと口ビールを喉に流すと、


「例えばの話なんだけど、親同士が決めた許嫁ってどう思う」


 すると彼女は缶チューハイを傾けて、


「ありなんじゃないですか。男と女なんてどう出会うかより相性ですから」


 クールに答えた。そのあと、


「まさか……ナオミさんって」


 大いなる勘違いをしていた。


「とにかく今日はこれ飲んだら寝たい気分なんだ。那由多はどうする」


「もちろん私のスペースは開けてくれるんですよね。スキンシップ、飢えてるんです」


「……」


 部屋の灯かりを落とすとオレンジの電球ひとつになる。那由多はマントを背中にごそごそと寝入る準備をしている。


「俺のこと、そんな信用していいの」


「信用問題じゃないんです。ナオミさん、こういうシチュエーションで手を出すような人じゃないと思ってるんで」


 暗がりの中、細い肢体が布団の中に潜り込んでくる。


「じゃ、寝ましょ」


 身体の右横に柔肌の温もりを感じて、目がさえ始めた。ここでどういう事態になろうとそれは和姦扱いされるだろう。


 そんな思いの中、その控え目な胸の隆起にそっと手を触れた。瞬間、彼女は身体を硬直させた。Tシャツ一枚の布切れがとても薄く感じられる。


「痛いの……苦手なんで……優しく……んっ」


 彼女の唇を奪うと一瞬の抵抗があったが、その細い手首を押さえつけるとやがて動かなくなった。


「男の部屋に泊まるって、そういうことなんだよ」


「彼女さん、越えてもいいんですか」


「麗美には……相手がいる」


 もはや相手の決まった麗美に手を出すのはルール違反だった。どうしてもっと早く、という思いが後悔となって押し寄せたが、ここには運悪く那由多がいる。それだけのことだ。彼女も本心から嫌がってはいない。


 三十分ほどもつれ合い、抱き合い、唇を重ねたが、


「最後まで、しないんですね」


 軽く上気した声でTシャツをたくし上げたまま彼女が言った。


「もしも俺の彼女になるならそういうこともあるよ」


「それは限りなく望み薄ですね。あの子がいる限り」


 夜は更け、ふたり分の寝息は部屋を満たした。麗美が憧れたはずの、ふたりきりの楽園に。


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