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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
41/272

41・(月)11月5日

          41(月)11月5日



「ホント、何もない」


 四畳半の畳を見つめ、那由多はそう言った。


「だから言ったろ。引っ越し前だって」


 僕はコンビニで買ったビールと缶チューハイを放り出した。


「電気つかないの?」


「つくけどカーテンないから外から丸見えだよ」


「いいわよ丸見えでも。悪いことする訳じゃなし」


 そう言われて麗美の顔が浮かぶのは当然だった。それにしても彼女の焦り方は知っている限り尋常ではなかった。


 僕は灯かりをつけ、バドワイザーを手にした。


「チューハイ飲んでいいでしょうか」


 那由多が急にしおらしくなり、実際に三つ指をついて申し出た。


「どうぞ」


 にわかに雰囲気が固くなる。なので、


「那由多――」


「はい?」


「那由多って呼んでいいのかなって。俺より学年では二個上になるんだけど」


「いいですよ、それで。あたしはナオミって呼びますから」


「まあ――そういう意味も含めて乾杯しよう」


 僕と那由多は畳の真ん中にコンビニの袋を置いて、ビールとチューハイで乾杯した。するとギターを置いたからなのか、しだいにホワイトな方の那由多に変わっていった。


「オリジナルって、いくつあるんです?」


「ああ、『西高東低』だけ」


「そう……あの時、勢いで命名したけど迷惑じゃなかったですか?」


「迷惑どころか、今じゃしっくりきてるよ」


「そう……よかった」


 それからやはり会話は途切れがちで、


「あの彼女は――」


 不意に那由多の口を突いて出たのは、


「恋人なんです?」


 よくある疑問だった。僕すらそれを認識出来たことはなく、


「すごく仲のいい友達だよ。キスだけの仲」


 そう答えると彼女はなぜか胸を撫で下ろし、


「よかった。今日は彼女越えするつもりなかったから」


 不明瞭な返事が返った。


「今日、誰か気になるプレイヤーいた?」


 僕が二本目のバドワイザーを畳に置くと彼女は、


「私はあなたしか興味なかったですから」


 そんな答えが返ってきた。


「俺の何が気になるの?」


「全部。独特なギターの弾き方から、唄い方。ビール飲んで煙草吹かして、通行人にヘラヘラ笑ってるとこ全部。あなたくらいだったら客に媚びずに唄えると思って、それで気になってたんです」


「俺のこと、いつから見てたの」


「精霊流しの前くらいです。あるお客さんに『思案橋のお兄ちゃんば見習え』って言われて、鼻息荒くして見に行きました」


「……その、ギターって言えば、今日の菅原さん、ギターのことって何にも言わなかったよね」


 那由多はチューハイを飲み干して答える。


「まったくプロレベルじゃないからですよ。あの人、私たちをボーカリストでひっくるめてどっかに突っ込みたいんです」


 それを聞いて合点がいった。思えば須藤さんのところに行った理由も、ボーカリスト募集だった。


「で、那由多はなんで帰りたくないの」


「それはさっきも言いました。このライブの昂りを鎮めたいんです。同じステージに立った誰かと」


「小川武流君じゃダメなの」


「そこは二十歳過ぎの大人じゃないと!」


「ミヤビさんは」


「あの人バラードがくど過ぎます」


「Bean――」


「民謡嫌いなんです」


 消去法で俺なのかと思っていると、


「ナオミさん、歌の質がいいんです。私の嫌いな尾崎豊でも、あれだけ丁寧に唄われたら心が奪われます」


 と言った彼女は何を思ったか、いきなり僕の右腕に縋りついてきた。


「離しません。だって今日いちばんに歌を分かり合えた盟友ですから」


 彼女は無表情に腕へ縋った。まるで今まで味方がどこにもいなかったように、


「那由多……?」 


「恋とか愛とか分かりません。ナオミさんには恋する前に嫉妬して、気づいたら愛してました、だからいいんです。ミュージシャン同志って、それでいいんです」


 よく分からない理屈を述べられ、ただ彼女の身体の柔らかさに動揺していた。


 数分間経ったろうか。彼女は身体を離し、気まずそうに言った。


「スキンシップに飢えてるんですよ」


「はあ……」


「これは客観的事実なんです。たまにストリートで握手を求めてくる人とかにも、すごい温もりを感じてるんです。私は人が好きなはずなのに、どうしても構えてしまって自分からは近付けないんです」


 その割にはさっき、しっかりと縋りつかれた。ただ、それは言っても仕方ないので、


「俺も今ではストリートで唄わなきゃ他人とのコミュニケーションさえ取れないよ。彼女を除いてはね」


「そういうの妬けるんで言わないでください」


「はい……」


 那由多はそれからまた煙草をねだり、僕と一緒に空缶へ灰を落としていた。


「今日のこと、誰にも言わないでくださいね。特にあの子には」


 スッとすり寄った彼女が耳元で囁いた。僕が答える前に、彼女は僕の顔を自分に向けてふっと口づけた。そして、


「友達でも出来るんですよね」


 初めて笑顔を見せた。子供がいたずらをするような顔で、ニヤリと笑った。


 それから酒もなくなった僕らは畳の上に転がった。彼女が、


「これ意外と温かいんで」


 といいつつ荷物から取り出したぼろ布とマントをかけて、明けてゆく夜を過ごした。


「今日の話、蹴るんですか」


 右隣で温もりを伝える彼女が天井を見つめて言った。


「まだ分かんないよ」


「そう」


 また襲った沈黙の中、


「『西高東低』って、旅の歌なんだ」


「言ってましたね。あの世界観は恋でも愛でもなく、吹っ切れていて好きです」


「内実を言えば、あれは天気予報を見ながら作った歌なんだ。もしかしたら俺は旅をしたいのかも知れないと思ってる。ギターを抱えて日本中回るんだ。ギターと歌で稼いだ金で暮らして、色んな街を見てみたい。これは彼女にも言ったことがない夢なんだ」


 そう言うとマントの下で那由多が笑った気がした。


「ということは、これで彼女さん越えですね」


「彼女にもいつか話す。けど今は言う時じゃない。胸にしまっておくよ」


「そうですか……」


 僕はマントの中で身体を反転させて煙草に火をつける。


「最後に唄った曲、なんていうの?」


「あれは、『夕凪』って歌です。みんなラブソングだと思ってますけど、元は原爆の歌なんです。最初に書いた歌詞が重過ぎて、恋の歌にしました」


 そういう歌の作り方もあるのかと、僕は煙を吐きながら思った。


 灯かりを消した室内を、街灯が優しく照らしている。那由多は可愛く寝息を立てている。頭の中には今日一日のすべてがよみがえっていた。明日へ繋がる大きな一日だった。


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