41・(月)11月5日
41(月)11月5日
「ホント、何もない」
四畳半の畳を見つめ、那由多はそう言った。
「だから言ったろ。引っ越し前だって」
僕はコンビニで買ったビールと缶チューハイを放り出した。
「電気つかないの?」
「つくけどカーテンないから外から丸見えだよ」
「いいわよ丸見えでも。悪いことする訳じゃなし」
そう言われて麗美の顔が浮かぶのは当然だった。それにしても彼女の焦り方は知っている限り尋常ではなかった。
僕は灯かりをつけ、バドワイザーを手にした。
「チューハイ飲んでいいでしょうか」
那由多が急にしおらしくなり、実際に三つ指をついて申し出た。
「どうぞ」
にわかに雰囲気が固くなる。なので、
「那由多――」
「はい?」
「那由多って呼んでいいのかなって。俺より学年では二個上になるんだけど」
「いいですよ、それで。あたしはナオミって呼びますから」
「まあ――そういう意味も含めて乾杯しよう」
僕と那由多は畳の真ん中にコンビニの袋を置いて、ビールとチューハイで乾杯した。するとギターを置いたからなのか、しだいにホワイトな方の那由多に変わっていった。
「オリジナルって、いくつあるんです?」
「ああ、『西高東低』だけ」
「そう……あの時、勢いで命名したけど迷惑じゃなかったですか?」
「迷惑どころか、今じゃしっくりきてるよ」
「そう……よかった」
それからやはり会話は途切れがちで、
「あの彼女は――」
不意に那由多の口を突いて出たのは、
「恋人なんです?」
よくある疑問だった。僕すらそれを認識出来たことはなく、
「すごく仲のいい友達だよ。キスだけの仲」
そう答えると彼女はなぜか胸を撫で下ろし、
「よかった。今日は彼女越えするつもりなかったから」
不明瞭な返事が返った。
「今日、誰か気になるプレイヤーいた?」
僕が二本目のバドワイザーを畳に置くと彼女は、
「私はあなたしか興味なかったですから」
そんな答えが返ってきた。
「俺の何が気になるの?」
「全部。独特なギターの弾き方から、唄い方。ビール飲んで煙草吹かして、通行人にヘラヘラ笑ってるとこ全部。あなたくらいだったら客に媚びずに唄えると思って、それで気になってたんです」
「俺のこと、いつから見てたの」
「精霊流しの前くらいです。あるお客さんに『思案橋のお兄ちゃんば見習え』って言われて、鼻息荒くして見に行きました」
「……その、ギターって言えば、今日の菅原さん、ギターのことって何にも言わなかったよね」
那由多はチューハイを飲み干して答える。
「まったくプロレベルじゃないからですよ。あの人、私たちをボーカリストでひっくるめてどっかに突っ込みたいんです」
それを聞いて合点がいった。思えば須藤さんのところに行った理由も、ボーカリスト募集だった。
「で、那由多はなんで帰りたくないの」
「それはさっきも言いました。このライブの昂りを鎮めたいんです。同じステージに立った誰かと」
「小川武流君じゃダメなの」
「そこは二十歳過ぎの大人じゃないと!」
「ミヤビさんは」
「あの人バラードがくど過ぎます」
「Bean――」
「民謡嫌いなんです」
消去法で俺なのかと思っていると、
「ナオミさん、歌の質がいいんです。私の嫌いな尾崎豊でも、あれだけ丁寧に唄われたら心が奪われます」
と言った彼女は何を思ったか、いきなり僕の右腕に縋りついてきた。
「離しません。だって今日いちばんに歌を分かり合えた盟友ですから」
彼女は無表情に腕へ縋った。まるで今まで味方がどこにもいなかったように、
「那由多……?」
「恋とか愛とか分かりません。ナオミさんには恋する前に嫉妬して、気づいたら愛してました、だからいいんです。ミュージシャン同志って、それでいいんです」
よく分からない理屈を述べられ、ただ彼女の身体の柔らかさに動揺していた。
数分間経ったろうか。彼女は身体を離し、気まずそうに言った。
「スキンシップに飢えてるんですよ」
「はあ……」
「これは客観的事実なんです。たまにストリートで握手を求めてくる人とかにも、すごい温もりを感じてるんです。私は人が好きなはずなのに、どうしても構えてしまって自分からは近付けないんです」
その割にはさっき、しっかりと縋りつかれた。ただ、それは言っても仕方ないので、
「俺も今ではストリートで唄わなきゃ他人とのコミュニケーションさえ取れないよ。彼女を除いてはね」
「そういうの妬けるんで言わないでください」
「はい……」
那由多はそれからまた煙草をねだり、僕と一緒に空缶へ灰を落としていた。
「今日のこと、誰にも言わないでくださいね。特にあの子には」
スッとすり寄った彼女が耳元で囁いた。僕が答える前に、彼女は僕の顔を自分に向けてふっと口づけた。そして、
「友達でも出来るんですよね」
初めて笑顔を見せた。子供がいたずらをするような顔で、ニヤリと笑った。
それから酒もなくなった僕らは畳の上に転がった。彼女が、
「これ意外と温かいんで」
といいつつ荷物から取り出したぼろ布とマントをかけて、明けてゆく夜を過ごした。
「今日の話、蹴るんですか」
右隣で温もりを伝える彼女が天井を見つめて言った。
「まだ分かんないよ」
「そう」
また襲った沈黙の中、
「『西高東低』って、旅の歌なんだ」
「言ってましたね。あの世界観は恋でも愛でもなく、吹っ切れていて好きです」
「内実を言えば、あれは天気予報を見ながら作った歌なんだ。もしかしたら俺は旅をしたいのかも知れないと思ってる。ギターを抱えて日本中回るんだ。ギターと歌で稼いだ金で暮らして、色んな街を見てみたい。これは彼女にも言ったことがない夢なんだ」
そう言うとマントの下で那由多が笑った気がした。
「ということは、これで彼女さん越えですね」
「彼女にもいつか話す。けど今は言う時じゃない。胸にしまっておくよ」
「そうですか……」
僕はマントの中で身体を反転させて煙草に火をつける。
「最後に唄った曲、なんていうの?」
「あれは、『夕凪』って歌です。みんなラブソングだと思ってますけど、元は原爆の歌なんです。最初に書いた歌詞が重過ぎて、恋の歌にしました」
そういう歌の作り方もあるのかと、僕は煙を吐きながら思った。
灯かりを消した室内を、街灯が優しく照らしている。那由多は可愛く寝息を立てている。頭の中には今日一日のすべてがよみがえっていた。明日へ繋がる大きな一日だった。




