4・(水・木)5月16日~17日
4(水・木)5月16日~17日
雨の水曜日をパチンコ屋で過ごして、トータル一万二千円の負けだった。パチンコで稼いだ金はどうやらパチンコでなくなるのが当然らしく、先日の僕の連チャンを見ていたお婆さんが、
「今日はあんまり出とらんたいねえ。うふふ」
と嬉しそうに声をかけて去って行った。
夜は夜で初日に唄ったアーケードの隅で唄い、
「頑張りなさいね」
と、ミカンを一個くれたオバちゃんがいただけだった。そしてまたサウナに向かった。
翌日。
まだまだあると思っていた残金はいつの間にか三万円になり、今日こそ路上で稼がなければという木曜日に思案橋へ出た。赤いキャップの少女はいなかった。
かといって彼女を待っている訳にもいかず、黙々と準備を進め、新しいカポの使い心地を確かめた。洗濯バサミのようなそれはギターのキーを上げるのに必要で、僕のような初心者にはなくてはならないものだった。
はす向かいに見える銀行の時計が、午後八時を指した。
軽く通行人の視線を感じながら、僕は演奏の準備を始める。少女の言った通りギターケースのフタを開け、背にしたビルへ身体を任せ、譜面台の尾崎豊を唄い始めた。路上で唄うようになって四日目、なんとなくその雰囲気に慣れた気分で、目の合った通行人に会釈することも覚えた。するとそこからチップに繋がることも分かってきて、路上演奏の要領というのが歌だけではないことも分かった。
「あー、やっぱりおった」
気の抜けた声と共に現れたのは、例の少女だった。今日は全身黒づくめで、キャップも黒だった。デニムジャケットから見え隠れするタイトなシルエットは女性らしさに溢れている。
「なかなか繁盛しとるたい」
小銭ばかりのケースを眺めてそう言うと、彼女は手にした紙袋から小さな折りたたみ椅子を出した。アウトドアで使うような小さな椅子だ。
「これ、使わんかなって思って」
差し出された手に戸惑ったが、断るのもなんだと思い、
「あ……ありがとう」
早速開いて尻に敷いた。すると胡坐で弾くよりギターが垂直に立って弾きやすかった。
「その椅子はこないだのお礼ね。あ、またビールいる? いるよね。ちょっと待っとって」
ひとりで勝手に納得すると、信号の点滅している横断歩道を駆けていった。何というか、今まで会ったことのないタイプだ。高校で会うのは揃いも揃って優等生タイプだったし、バーガーショップのバイトではノリのいい大学生ばかりだった。そんな中、彼女はどこかクールで謎めいて見えた。それが異性へ対する興味だと僕は気付かず、やがて彼女に翻弄されるようになる。
「バドワイザーでよかった? あたしのお気に入り」
「ありがと」
バドワイザーのプルトップを開けると、すぐに泡が溢れてきた。僕は慌ててそれを飲み込む。
「ごめん、ごめん。走ってきたけんさ」
彼女は澄ました顔でビールを煽る。白い喉元が大きく波打ち、金色の鎖がチラリと見えた。
「ブルーハーツ、覚えた?」
僕は煙草を取り出して答える。
「CD……持っとらんから」
「明日おる? テープにダビングして持って来るけん。歌詞もコピーするけんさ」
僕はポケットのジッポをカチリと開け、煙草に火をつけた。そういった行為なしに会話が出来なかった。二十歳になったばかりの子供だと思われるのが嫌だったのだ。
「じゃあまた聴いとるけんさ、何か唄うて」
その言葉にどこか安心し、煙草を消して譜面をめくった。曲は『I LOVE YOU』だ。
やはり彼女の存在は大きいのか、曲の途中に立ち止まる人が数人いた。チップも入る。
彼女は飲み干したバドワイザーの缶を灰皿にして煙草を吸っていたが、歌が終わると、
「よか歌やね。それも尾崎?」
「うん」
それだけしか言葉を返せなかった。そこへ、
「あたしね、麗美。お兄さんなんて名前?」
「僕は――杉内直己」
あまり好きな名前ではない。
「ふーん。ナオミ君ね。じゃ、あたしこれで」
今日は取り分もなしに帰るのか、と訊ねたかったが、玩具を取り上げられた子供のような気がしてそれは口にしなかった。明日がある、と思えば小さく胸が高鳴った。
サウナのリクライニングシートで目を覚ました。昨夜の稼ぎは三千円だ。それは宿代で消える。だからといって、もうパチンコに手を出している場合じゃない。それを朝から自分に言い聞かせるというのも情けなかった。
朝七時のサウナは人も慌ただしかったが、何の予定もない僕は閉館の十時まで時間を潰す。壁一面に並んだブラウン管から天気予報を探すと、今日の天気は曇りで降水確率は十パーセントだった。夜の心配はなさそうだ。ギターを弾くようになって初めての週末。それはいったいどんな夜になるだろう。
曇り空の下に出ると、それでも五月の空はサングラスなしでは眩しかった。胸ポケットからレイヴァンを出すと耳にかけた。煙草、サングラス、酒と、大人びたツールで自分を守り、僕は今日も街を歩く。 ウォークマンで耳をふさぎ、延々と尾崎豊を流し、同じく高校を中退した彼と自分の身の上を重ね合わせ、そしてギターケースを右手に歩いた。それはとても誇らしく、僕にとってのギターはすでに矛であり盾であった。ギターがある限り何でも出来そうな気がしていた。いつかスケッチブックと鉛筆を手にそう考えていたことも忘れて。
最近の行きつけになりそうな喫茶店エンゼルでトルコライスを頼み、食後は定番のコーヒーと煙草を吹かした。
退屈な午後を眼鏡橋のベンチで潰し、陽が落ちると街中へ向かった。まだ時刻は六時だったが、思案橋を通る人の群れを確認するために早目に現場へ向かった。金曜の浜の町アーケードは人混みに溢れ、僕はギターケースがぶつからないようにすることに気を取られてばかりいた。