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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
39/272

39・(日)11月4日

          39(日)11月4日



 五分間の入れ替え中に汗を拭き、受付でビールをもらい、今度は客席へ向かった。


「お疲れ様」


 麗美が言うと、


「カッコよかったよ」


「いい声しとるね」


 チャイナドレス軍団からお褒めの言葉をもらった。


 さて、二番手三番手の歌はリハでも聴いていない。須藤さんの言う通り、他の人間がどんな歌を唄うのかは勉強になるはずだ。


 第二幕はそんな期待の中で始まった。


「こんにちは! ミヤビと言います! 大学出てバイトやってます! 本日は最年長になるらしいですがよろしくお願いします!」


 出だしの勢いはよかったのだが、曲が始まると自作のバラード続きで、正直なところ拍手も弱々しかった。ただ、最後に唄った『206号線』という歌は長崎の地名をあちこちに散りばめてあり、言うなれば郷土愛を唄った曲で最後まで飽きずに聴けた、


 三番手の男の子は、Beanという名前で、麦わら帽子が特徴的な歌い手だった。


 本人曰く、


「沖縄や奄美の民謡ばっかり唄ってます」


 ということで、確かにそういった歌が続いた。ならば日向那由多の方が僕には好感が持てた。それでもトークが素晴らしく、会場は笑いの絶えないステージになった。そして誰しも最後には自信曲を持ってくるようで、


「オリジナルです、聴いてください」


 そう言って始まったのは民謡ぽさゼロのストレートなフォークソングだった。別れた恋人へのラブソングだった。やはりラブソングは受けるのか、最大の拍手をもらい彼はステージを降りた。


 四番手は駅前に視察に行った小川武流君で、


「あの、初めまして。今日チケット売れなかったのって僕だけらしいんで、歌の方で頑張ります」


 と、いきなり笑いを取っていた。


 唄い出したのは学校生活のあれこれで、地理の教師が禿げあがっていて、昼の購買は戦場で、放課後からが僕の高校生活だ、という分からない人間には笑えない歌だった。


 そんな学校風景を切り取った曲の流れで、やはり代表曲なのか最後に『S』を唄った。


 ――雪が降る前に 雪が降る前に もう一度会いたい


 なんと後奏すべてカットして、アカペラで唄い上げると満足そうにギターを置いてステージを去った。拍手はまばらだった。


 いよいよ日向那由多の出番という前に、僕はドリンクを買いに受付へ行った。


「おう、大将!」


 呼んだのは誰あろう船水さんで、


「仕事に戻るけん。これでビールでも飲め」


 と千円札をもらった。


「ありがとうございます! 明日も思案橋いますんで!」


 ビールをふたつ持って戻った僕に、


「ナオミ君てライブでもチップもらえるとやね」


 麗美が真顔で言った。


 ステージ上は慌ただしく、大トリに相応しい日向那由多がセッティングを始めた。やけに低い位置にマイクを置くと、ぼろ布を重ね着したような衣装で例のバスマットの上に胡坐をかく。その姿だけで会場がざわついた。


 次の瞬間、マイクチェックもなしに彼女が声を出した。いや、放った。


 民謡調の歌声は健在で、だからこそ唄い出してしばらくその曲名が浮かばなかった。ユーミンの『卒業写真』だった。


 一曲が終わるとその拍手はすさまじく、次の曲のイントロが流れてようやく止まった。曲紹介を一切しないのは彼女のスタイルなのだろう。


 二曲目もユーミン作詞作曲の『いちご白書をもう一度』だった。自分のレパートリーになければそれと知らずに聞き逃す曲だった。何よりコブシ回しに近いビブラートと音圧がすべてを民謡に変えてしまうのだ。奄美民謡を唄うと言った三番手のBeanのことなど誰もが忘れ去っているに違いない。


 圧巻のステージは四曲目を終え、


「もう二曲唄おうと思ってましたが、色々あって次をラストにします」


 相変わらず曲紹介もなく、彼女はCのコードを押さえた。


 ――叶わぬ恋 またひとつ消して つかみ損ねた思い そっと見送った


 ステージの張り詰めた空気が会場を侵食する。それでもいつかどこかで聴いたようなメロディに心を任せる。


 ――いつも夢を見てた 許されぬままに

 ――永き時よすべて 今 空に消え去れ


 長い間奏の間、彼女はひとつの楽器のように声を発していた。「アー」でもなく「エー」でもなく、魂が叫ぶように声を響かせた。やがて、


 ――儚きものすべて夢と呼ぶならば 儚きこの命 すべて捧げよう

 ――儚きこの想い 君に捧げよう


 あとはギターの調べがクライマックスを終え、静かに、本当に静かに曲は終わった。どこからともなく広がった拍手は会場を包み込んだ。曲名は、結局分からなかった。



 日向那由多がステージを去ると、いつの間に黒いスーツに着替えた須藤さんが壇上に立った。


「いやいや、皆さま長丁場お疲れ様でした。スタジオD、第一回ストリートミュージシャンイベント『路上人』お蔭さまで無事終了しました。私、会場責任者の須藤稔と申します。会場はしばらくオープンにしますので、皆様どうぞごゆっくり歓談なさって行ってください。今からテーブルをいくつかご用意させて頂きますのでお待ちを」


 それから程なく丸い白テーブルが運ばれ、僕はもちろん麗美と共にテーブルに着いた。先に帰った麗美の友達五人には何度も頭を下げたが、


 ――「次いつやると?」


 ――「また呼んでね」


 と嬉しい言葉を聞かせてもらった。


「でさあ、ナオミ君やったっけ? レイと一緒に住んどるってホント?」


 いちばん目立っていた金色のドレスの女の子が、ライブの余韻もなしにストレートに訊ねてきた。


 僕は隣の麗美を盗み見たが、平気な顔でビールを舐めている。


「俺が勝手に転がり込んだだけで、その、もう新しいアパート借りたんで」


「へえ、じゃあ今度、遊びに行こうかなあ」


「いや、それは」


 すると麗美が席を立ち、


「トイレ」


 表情の読めない顔で立ち上がった。


 そこへ運よく須藤さんが現れ、


「杉内君。これ、忘れんうちにチケットバックね。ご苦労さんでした」


「はい、ありがとうございます」


 僕は封筒をポケットにねじ込んだ。一万円入っていた。


 が、彼の目的は他にあったようで、


「それで、きれいどころの皆さん。本職でしょ? このあと中華街に行って打ち上げるとけど、ついて来んね? 御馳走するよ」


 言うや否や、


「江山楼?」


「いやあ、ここは渋めに甘露やろう」


「西京なら行くけど」


 と盛り上がりを見せ、須藤さんが、


「四海楼のシェフが新しく出した店さ」


 そう言うと声を揃え、


「行く!」


 女の結束を見せた。


「じゃあ皆、ボチボチ動こうかね!」


 立ち上がった須藤さんに、そこへ麗美が戻ってくる。


「皆、解散?」


「いや、須藤さんが中華街の店に行くって」


「ふうん。あたしも行ってよかとかな」


「いいんじゃ? 敏腕マネージャーやし」


 僕が言うと一瞬照れたが、右手で髪の後れ毛を気にしながらうなずいた。


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