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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
37/272

37・(日)11月4日

          37(日)11月4日


 文化の日から続く日曜日。秋空は薄曇りだった。


「ナオミ君、もう起きた方がよくない?」


 ベッドの隣の麗美が目覚ましを握って訪ねてくる。見ればまだ朝の八時だ。僕より先に目を覚ますとは珍しい限りだ。


「大丈夫だって……あと一時間寝よう」


「ダメやって、大事な日なんやけん。早う起きて、ご飯作るけん」


 めっきり朝に弱いはずの彼女に言われると、無理にでも起きなきゃいけない気分になる。ついに当日が来た。


 ホットドッグという珍しい朝食を終えると、


「声の調子どんな?」


 彼女が訊ねてくる。


「なんで?」


「昨日、ちょっと唄い過ぎた時の声になっとったけん」


 そこまで聞いているのかと感心しながらも、


「大丈夫。本番には強いから」


 コーヒーを飲み干すと、ようやく朝が来た気分になる。


 麗美は予約を入れて置いた美容室に朝一で行ってくると、七五三のようなことを口にして先に出た。あとは現地で落ち合う予定だ。


 そうなると僕は手持ち無沙汰になってしまい、壁際のギターを取り出し、『ダンスホール』の練習で時間を潰した。そうするとリラックス出来て、今日のライブも問題なく唄える気がしていた。


 それでも十二時を回ると落ち着かなくなり、譜面を出して曲順をチェックしたり、意味もなくテレビをつけて素人のど自慢に見入ったり、無駄な時間を過ごしていた。そこへ、


 部屋の電話が呼び出し音を鳴らした。この頃になると麗美からの電話と母親からの電話の区別が何となくつくようになっていて、きっと麗美が美容院を終えた連絡だろうと電話を取った。


「はい、香坂です」


 僕は軽い気持ちでそう告げて、彼女の声を待った。が、電話の向こうは黙ったままだ。


「もしもし? 俺だけど」


 しかし受話器からは彼女の声でなく、


『あんた、誰ね』


 聞き覚えのない、重厚な男性の声が鼓膜を震わせた。慌てた僕は、


「あの、麗美さんの友達で、今、留守番させてもらってます。杉内直己と言います」


 全身から冷や汗が噴き出る中で、言えるだけのことを言った。


『戻ったら連絡するように言うてください』


 余韻も残すことなく、そして電話は切れた。


 僕は壁の時計を見上げ、ギターを仕舞い、部屋に鍵をかけて外へ出た。一時だ。マンションの空気が重過ぎてひとりでは耐えられなかった。



 日曜のデパート屋上には家族連れが至る所にいた。僕はコーヒーを手に、いつものフェンス際へ向かった。


 風の強い屋上で煙草に火をつけると、赤い火種が手の平の中で鮮やかに色づいた。


 煙を吐き出す。呼吸の中に煙が入り込むということに初めて違和感を覚えた。今日はライブなのだ。少しは喉を労わってもいいかと、つけたばかりの煙草を灰皿で消した。


 二時になるまでぼんやりと家族連れを眺めていた。コイン式の望遠鏡を覗く子供は、「家が見える!」とはしゃいでいる。その昔、僕も同じことを言った気がする。


 不意に家族のことを思う。あれから何もないということは僕がいなくても家庭は回っているのだろう。僕はやはり不必要なピースだったのだ。学校にも行けず、仕事も続かず、ただ飯を食らうだけの人間は家庭にいらなかったのだ。




 予定の三時前にスタジオDへ向かうと、事務所の方でバタバタと動き回っている須藤さんが見えた。若いスタッフも見える。


 そんな須藤さんと、ガラス越しにふと目が合う。彼はいつもの笑顔を消して、ドアを開けて出て来た。


「お疲れ」


 すぐに煙草を取り出し一服すると、


「気合入った衣装やね」


 両袖にフリンジのついたジャケットを見て彼が笑ってみせる。


「まあ、なんていうか形も大事かなと」


「で、集客どうかな」


 そう切り出した。


「そうですね、チケットはとりあえず全部売れたんですけど――」


「売れたと? 全部?」


「ええ。ただストリートのことなんで足を運んでくれるかどうか。彼女は友達を連れて来てくれると言ってましたけど」


「いやいや、立派。チケットってのはね、なかなか売れるもんじゃなかとよ。全部売れたとはどうやら杉内君だけやけん」


「そうですか――」


 ということはすでに出演者は集まっているんだろうか。


「もうリハーサルは始まっとるけん。逆リハやけんが君が最後ね」


「はあ」


「じゃあ行こう。こっちは控室になるけん。ペットボトルくらい用意しとるから」


 スタジオの奥からドアを開けると、緩やかな上り階段が続いていた。暗幕の奥からはあの独特の声が響いている。日向那由多だ。


「じゃ、時間丁度です! 次、小川武流さん準備お願いします!」


 スタッフの声が飛んでいる。そんな中、僕は舞台袖で彼女とすれ違う。薄暗い中、鋭い目線だけが僕を射抜いた。


 客席には五十脚ほどの椅子が前面に並べられ、後ろ側はスタンディングになっている。


 圧迫感を感じる室内で、ミキサーの並ぶ後ろ側に立っていると、


「杉内君、エントリーシートだけ書いてもらってよかね。ストリートの人が多かけん歌の被るかも知れんとさ」


「はあ」


 僕は名前を書くと、昨夜決めた曲順を並べた。全五曲、今の僕の精一杯だ。


 高校生の小川君は相変わらずのほほんとした顔で『なごり雪』を唄っている。残り二組の出演者も気負いなくステージを見ていた。そんな光景に緊張感の糸がぷつりと切れる。このあとまだ二組がリハーサルを残しているならまだ時間的余裕はあるだろうと、本番前練習のため僕は控室に戻った。他人のリハーサルで集中力をそがれたくない。本音を言えば委縮したくなかった。


「あ、ナオミ君」


 控室にいたのは日向那由多だけでなく、髪をトップでまとめた彼女はなんと赤いチャイナドレスで現れた。

「そのかっこ――」


「似合うやろ? 貸衣装。で、これ差し入れ」


 見ると袋にはバドワイザーが二本入っていた。


「ストリートミュージシャンは基本が大切。これはルーティンワークのビールやけんね。須藤さんにもOKもらったし」


「OKって、そういえばチケットは?」


「ああ。マネージャーは付き添いやけんいらんて。その代わりナオミ君、約束通り十人呼んだけんね。しっかり唄うとよ」


「ありがと……」


 そんなやり取りを横目に見ていた日向那由多が、


「ライブ前にお酒とか不謹慎です」


 ボソリと呟いた。


「でも、結構多いらしいよ。本番前からお酒飲むプロ」


 麗美が笑顔を向けると、


「そんなプロ、知りません」


 ペットボトルの水を飲んでいた。


 四時になると、スタッフの人が控室に顔を出した。


「杉内直己さん、リハお願いします」


 僕はすでに取り出していたギターを携え、ハーモニカを首にかけてステージへ向かった。軽い酔いがいつもの路上のようでリラックス出来た。


 リハーサルは音合わせこそ綿密だったが、拍子抜けなほど何もなく進んでいった。一曲目の『ダンスホール』のあと、気になっていた裏声も出るようになっていて、あえて全曲やる必要もないだろうと、『失くした1/2』と『チェインギャング』を唄って終わった。何がプレッシャーだったと、すでにリハを終えた演奏者たち――日向那由多を除く――が、前列で睨みつけていたことだ。それぞれの思惑はあるのだろうが、僕はライブを楽しみたかった。


「杉内さんいただきました! 本番よろしくお願いします!」


「よろしくお願いします――」


 一番手の僕はギターとセッティングをそのままにステージを降りた。麗美が少し上気した顔で、


「ばっちり。あと、譜面台使わんでよかったと?」


「まあ、負けたくない人もおるから」


「そう。本番頑張ってね」


 そこへ、


「それでは出演者の皆さん、今から客入れとなりますので、一度控室に戻ってください」


 事務的にマイクの声が響いた。午後四時半だった。


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