34・(木)10月18日
34(木)10月18日
翌週は雨が多く、稼ぎも悪い日が続いた。チケットもデモテープも、ひとつも売れていない。今のところ売れたのは単発の客が三人、船水さん、そして先週のふたりで六枚だ。実際に足を運んでくれそうなのはふたりだけだった。
「大丈夫やって。あたしが友達十人連れて行くけん」
麗美は目玉焼きを焼きながら鼻歌混じりに言ってのける。さらには、
「で、本番二週間前けど、心境的にはどうなん?」
「どうって……普通、かな」
コーヒーを飲みながら答えておいた。実際にはプレッシャーに押し潰されそうだ。逆に毎日のストリートが息抜きになっている。
厚切りパンをチーズトーストにして、この部屋とももうしばらくかと考えていた。そこに未練があるとすれば彼女との近過ぎる生活が遠退くことへの寂しさだけだった。まるで家族のように暮らした半年は、幻のようだったとも言える。
(最悪、僕が家に戻ればすむことだ)
食事を終え、彼女は洗い物をしながら、
「今日こそ物件見つけようね」
痛ましい笑顔でそう言った。あれから二日に一回は不動産めぐりをしている。
そんな時だ。珍しく朝から電話が鳴った。
二人の間に言い知れぬ緊張感が走ったが、コール三つで彼女が電話を取る。
「はい、香坂です」
思い詰めた表情で、はい、と繰り返していた麗美が、突然声を大にした。
「ホントですか?」
そう言って今度はメモを取り始めた。
「はい……午後二時……寺町の……分かりました。よろしくお願いします」
電話を切ると彼女は不意にしゃがみ込み、
「ナオミ君」
口元を一瞬歪めると、
「部屋、見つかるかも」
それだけ言うとソファーへ座る僕の下へなだれ込んできた。
「部屋って、借りる部屋?」
彼女は僕の身体に腕を回し、
「そう。あたしたちのスイートホーム」
しばらくその体勢で動かなかった。僕はと言えば実体もなく舞い込んだ幸運にしばし呆然としていた。
午後一時半を回り、麗美の言うイズミ不動産へ向かった。僕の記憶にはない名前なので、彼女が単身交渉に向かっていたのだろうか。
現地に着くと、木造のこじんまりとした不動産があった。賑橋から裏通りに入った店舗で、表いっぱいに張られた物件はなんと二万円台からあった。
「こんにちは」
立てつけの悪い引き戸を両手で開けたのは麗美で、僕はあとをついて行くだけだった。
中へ入ると丸眼鏡をかけた白髪のお婆さんが椅子に腰かけてルーペを手にしていた。
「富士ハウスの御厨さんに、お電話で紹介していただきました。香坂と申します」
麗美が行儀よく挨拶すると、ようやく気付いたという顔のお婆さんが、急に机の前を片付けながら無表情に言った。
「香坂さんとこの娘さんね」
目を細めた様な眼差しで、威圧感はなかったがそれ相応の圧迫感はあった.
「香坂麗美です。源三は父です」
緊張気味の麗美が答え、経緯を説明した。すると、
「そげんやったらお父さんに頼むとがいちばんやろうに」
急に相好を崩して地図を一枚開く。
「とりあえず座りなさい」
そこでようやく僕らは息を吐き、勧められた椅子に座った。
「で、あんたは誰ね」
急に矛先を変えられて僕は焦ったが、
「僕は……友人の……」
後が続かない僕に、
「あたしの彼氏の杉内君です。今度の部屋探しは彼の行き場がなくなるからやってることです。隠してても仕方ないんで素直に言います」
「そしたらこの人の名義で借りるちゅうことね」
「いえ、あたしの名義です。彼は今、思案橋の街角でストリートミュージシャンをやってます。日々の稼ぎは三千円くらいで、部屋を借りることは出来ません」
「その、ストーリーちゅうとは何ね」
「ギターを演奏して唄ってます」
僕の言葉もなしに話は進んでゆく。
「ほう、流しさんたい」
不意に笑顔を見せたお婆さんに、麗美が言う。
「そういう言い方もあります。それであたしはこの人のファンなんです。彼がずっと唄えるように手助けしたいと思っています。どうにかお願いします」
麗美が言うと、
「そこの流しさんは、月にいくら稼ぐとね」
ついに話は僕へ振られ、
「十万……ないくらいです」
ごまかさない方がいいと思い、素直に答えた。
するとお婆さんはおもむろにそろばんを弾き出し、
「あんたが借主なら、きちんとした保証人がいるごたるね」
はあ、とうつむきかけた僕に、
「あたしがなります! あたしが保証人になりますから、絶対にちゃんとしてみせますから、お願いします!」
するとお婆さんはそろばんを弾く指を止め、
「じゃあ、また明日来なさい」
そう言って眼鏡の曇りを拭いた。
「香坂さんとこの嬢ちゃんは実印ば作って市役所で印鑑登録証ばもろうて、そいから来なさい。お金は今月の日割りと敷金。ただし私が持っとる物件で文句なかったらの話しばってん」
そこには僕が先にうなずき、
「お願いします!」
お婆さんは眼鏡をかけ直し、
「香坂さんば信用しての話しやけんね。そうじゃなかったら私もお兄ちゃんのごたる不安定な人に部屋は貸さんばい」
全身に棘が刺さるような言葉だったが、僕は無言のうちにそれを受け入れるしかない。
「明日、来なさい。悪かごとはせんけん」
僕らはゆっくりと立ち上がり、ふたりして深くお辞儀をした。
外へ出ると、曇り空の下を赤とんぼが飛んでいた。
「よかったね……」
中島川を川沿いに歩きながら、まつ毛を伏せた麗美が言った。こういう時は感情を隠さずに大声でわめき散らすはずの彼女が、穏やかだった。
「俺は……何もしとらんけん」
そう言うと、言ったままの言葉が自分に返ってくる。僕は何もしていない。麗美の父親の威厳だけで話が進んだだけだった。そしてそれはまた彼女も同じ気持ちだったろう。
「ナオミ君」
浜の町アーケードの入り口で、彼女は消え入りそうな声で小さく呟いた。
「キス、して……」
けれど僕は応えられなかった。彼女との間に大きな溝を感じたまま、雑踏の中で手を繋ぐだけだった。




