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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
32/272

32・(水・木)10月10日~11日

          32(水・木)10月10日~11日



 十一時過ぎからはちょこちょこと人がついて、終わるタイミングを逃した挙句一時半になった。

 

マンションへ帰ると鍵は閉まっていて、僕はポケットの合鍵でドアを開けた。


「麗美、ただいま」


 灯りのついたリビングへ入ったが、誰もいない。テーブルの上には何本ものカセットテープが積み重ねられている。と、そこへ麗美が慌ただしく戻ってきた。


「あ、ナオミ君帰った? お疲れ様。ちょっとね、コンビニでコピーしよったけん」


「コピー? で、このテープは……」


「これね、こないだのテープと新曲と合わせてダビングしたと。デモテープ。でね、歌詞もちゃんとコピーしてきたとよ」


 見せてくれたコピー用紙には、繊細な手書き文字で『西高東低』の歌詞が書かれていた。間違っている場所はひとつもなかった。


「これ、麗美が書いたと?」


「そうよ。だけん明日からデモテープ置けるね。ま、尾崎はボーナストラック扱いで」


 照れ臭そうに笑う彼女を見つめ、身体の芯から温もりが溢れた。


「ありがとう……俺のために」


「だってあたしマネージャーって名乗ったもん。これくらいせんばね。じゃ、ふたりで今から折り紙タイムしようか」


 B5版のコピー用紙を小さく折って、カセットケースへ入れる。それだけの作業で何やら興奮してしまう。まるで自作のCDでも出来た気分だ。


「どんな人が聴いてくれるやろね」


 カセットレーベルへ丁寧にタイトルを書いていた麗美が小さくこぼす。


「てか、ギターケースに置いてるだけでいいのかな」


 僕は折り紙の手を止めずに呟く。


「歌聴いてくれた人にはあげる覚悟で渡したら? 明日バイト休みやけんあたしも手伝えるよ。ライブチケットも捌けた方がいいし」


 深夜のマンションには、いつも通り隣のビルからカラオケが聞こえていた。


「これで十本。終わり」


 計十本のカセットテープにバラバラの音源を録音するのはひと苦労だったろう。それを考えると感謝の念しか浮かばなかった。彼女はこんな僕にいつも献身的だ。


「ビール、飲む?」


 僕が訊ねると、


「シャワーのあとにする」


 そう答えてバスルームへ消えた。


(デモテープか……売れるかな)



 翌日は久々に麗美と昼間のアーケードへ向かい、アストレアのトルコライスを食べた。長崎発祥のトルコライスは店によってかなり色が違うので、三日連続でも食べられる。今日はデミグラスソースのかかったカツにナポリタンとピラフの王道トルコライスだ。


 食後の一服をしながら、


「ライブ、何ば唄うと?」


 そう言って彼女はアイスコーヒーのストローをくわえた。


「決めてない。ていうか決め手がない。三十分っていえば五曲か六曲は唄えるし、まあ尾崎二曲に長渕一曲、あとは路上で受けのいいフォークソング――」


「と、『西高東低』やね」


「うん」


「ところでさ、なんでそういうタイトルにしたと?」


 いつか訊ねられるとは思っていたが、僕は落ち着いて答える。


「なんか、歌詞を書き出した瞬間に、規模の大きな歌にしようと思って。日本中を包み込めるくらいの規模の大きな言葉って考えてたら、そうなって」


 もちろん、でたらめだ。


「ふうん。天気予報とかで言うよね。西高東低の気圧配置って」


「そうそう、そういう感じ」


 何とかウソでごまかし、僕は煙草を消した。


 食事が終わると楽器屋へ弦を買いに出かけた。弦の交換はライブ三日前くらいにしよう。しっかりと弦が伸びて落ち着く頃だ。一日二日はチューニングが狂いやすくなる。


 それから麗美は新しいキャップを見て回り、結局何も買わずに帰った。女子にありがちなウインドウショッピングだ。何か買う時は即決なので、買わない雰囲気は分かる。


 マンションに戻ると午後三時で、僕は出しっぱなしのギターを手に取っていつものコードを押さえつつ新しい着想を待っていた。時にそれは降って湧いたように訪れるのだ.。


 が、そうそう上手くいく訳もなく、三十分後には投げ出していた。


 と、そこへ電話が鳴る。麗美は二度目のベルで面倒臭そうに受話器を取っていたが、


「ナオミ君。ちょっと出といてくれるかな? ていうか夜まで」


 やけに顔色の悪い彼女が受話器を置くと、申し訳なさそうに言った。また母親だろうと高をくくっていた僕は、


「いいよ。浜屋の屋上で潰してストリート出るから」


「ごめんね」


 言葉少なな彼女を部屋に残し、僕は荷物をまとめた。



 ウォークマンからはデモテープのひとつが流れていた。『西高東低』だ。だいぶ自分でも聴き慣れてきて、僕は他人の曲をコピーする気分で頭の中にコードを組み立てる。何か所か不自然なコードを見つけたので、今夜のストリートで修正しておこうと思った。


 カップのコーヒーを手に、遠くの山々を眺める。傾き始めた太陽が、本格的な秋の訪れを告げている。

真冬のストリートというものを想像したが、寒い以外の問題は見当たらないので厚着して出ようと思えば、冬のワードローブも必要だなとコーヒーを啜った。九州と言えど降る時には雪も降る。


 止まったままのメリーゴーランドを見ると感傷的になり、麗美とも半年近い付き合いになるのだとしみじみ思っていた。今の暮らしがいつまで続くかは僕次第だと、毎晩のストリート収入にかけるしかないこの身を不思議に感じる。人はひとりで生きられないが、大切なことを決める時はいつもひとりだ。


 ――チケットの行き先忘れたら まだ君に会えるけれど

 ――乾いた埃まみれの空 線の虹を越えてゆく


 いい加減、耳に馴染んだ『西高東低』の歌詞を口ずさむと、何かが手招きしているようにも思えた。僕の中にある憧れ。そんなものが手を振っているようにも聞こえる。それがひとり旅なのだと気付いた時、麗美に申し訳ない気分になった。それは心の奥へ仕舞うことにした。


 彼女との距離感は不思議だ。他人行儀な時もあれば、時には恋人以上の親密さもある。ベストパートナー、と呼べばしっくりくるが、それは恋人なのだろうかと考えて、何かが違うと僕は首を振る。


 夕日は造船所の向こう、稲佐山の奥へ沈み、肌寒い風が屋上遊園地を吹き抜けた。


 六時過ぎの屋上遊園地に別れを告げて、僕は一階へ下りる。そこに麗美のいないことが寂しさを連れてきてはいたけれど、そこに挫けてはいけなかった。ただひとりという現実を直視するのは高校時代から特技だったはずだ。大人ぶって夜の街を彷徨い、物陰で煙草を吹かし、いつか心血を注げる何かに出会えると信じて、そして今があるのだ。ひとりきりなんていう寂しさに負けている場合ではなかった。アーケードを人波に任せて歩けば誰もがひとりぼっちに見えていた。



 木曜日の思案橋は人もまばらだ。けれど、こういう夜こそ予想外の事態は起こる。そう信じてギターを出した。時刻は七時ジャスト。


「おう! 今日も定時出勤か!」


 まずは白いスーツの長場さんが声をかけてくれ、一曲目に悩んでいた僕の背中を押す。一曲目は長渕のアルバム『HOLD YOUR LAST CHANCE』から『SHA‐LA‐LA』だ。勢いをつけるのにもってこいだった。


 間奏のハーモニカに気を取られていると、ひとりの男が近付いてくるのが見えた。途端に僕は演奏を止めた。


「なんしよっとや」


 僕は目を伏せて、


「関係なかやろ」


 精一杯の言葉を引っ張り出す。


「関係なかならよかさ。もう家に迷惑かけんな」


 そう言って、兄は銅座の奥へ歩いて行った。心臓がバクバクと高鳴っている。これでもう家族とは関係ない所へ辿り着いた。その気概だけで夜を唄い通した。喉が裂けるのも気にせずに叫んでいた。


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