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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
31/272

31・(水)10月10日

          31(水)10月10日


 夏の名残もあっという間に気配を消し、長崎の街が最も熱くなる十月の長崎くんちも終わり、麗美の金魚柄の浴衣も見て――着付けも手伝い――、スタジオDのライブはいよいよ近付いていた。


とはいえ毎日の暮らしに追われる僕は、空模様と相談しながらストリートの演奏に出るだけだった。つけ足すなら。Cのハーモニカを買った。『西高東低』のためだ。


 あれから一度だけくろがね橋の日向那由多の前を通ったが、演奏中の彼女は細い目で「帰れサイン」を出していた。二重人格なんてマンガでしか見たことはなかったが、生で鑑賞すると面白いものだ。遠目に限るが。


「ナオミ君、トースト焼けたよ」


 近頃ダブルソフトにはまっている麗美が厚切りの食パンを皿に置いてくれた。コーヒーは最近、ちょっといいヤツに変えた。インスタントのダバダ~なのだが、少しグレードアップしている。その訳は麗美がお中元の余りのコーヒーセットを持って来てくれたからだ。


「ナオミ君てば、パン焼けたって」


 麗美の言葉が上の空に消えてなくなるのは、ライブのプレッシャーのせいだ。夏に見たあのステージで百人を前に唄うのかと思えば、緊張だけでなく不可思議さが勝っていた。


 そんな僕の心を読んだか、彼女がコンビニのサラダを突きながら漏らした。


「ナオミ君さ、『早過ぎる準備は怪我のもと』って分かる? 山に登る人はその日の天気を見て装備ば決めるとよ。色々考えることはあるやろうけど、荷物で一杯になったら山には登れんばい」


 麗美の言葉はいちいち核心を突いている。


 とはいえ僕はマーガリンを塗ったトーストを割きながら、のそのそと口へ運ぶ。気がつけば五月の半ばから五カ月の間、ここでこうして暮らしている。それは彼女との親密さを増す期間ではあったけれど、今ひとつ彼女との関係性をうやむやにしている自分を責める材料にもなった。麗美がどれだけ奔放に――両親の邪魔立てなしに暮らせる環境にあるかによって、僕の生活も変わるのだ。


「じゃあさ、ステージ衣装買いに行こうよ」


 遅い朝食の洗い物が終わった彼女がシャツの裾を気にしながら言う。


「でも、そんなお金ないよ」


 毎晩の二千円徴収の中で、手持ちはそう多くない。


「いいよ。行きつけの古着屋さんがあるけん、夕方でも一緒に行ってみよ」


 天気がいいので、先に洗濯機を回してベランダへ干した。この頃になると彼女の下着を干すのも抵抗がなくなっていた。


 五時になり、昼の二時から読書タイムを過ごしていた彼女が、


「そろそろ行こうか」


 本を閉じて立ち上がった。


 浜の町アーケードの東端をまっすぐ歩くと、次第に店も減って住宅街に近寄ってゆく。彼女を信じて先へ進むと、


「ここ」


 表に派手なペイントジーンズが飾られた店の前で麗美は立ち止まった。ハードルはやや高そうだ。が、店へ入ると不必要な接客もなく、自由にあれこれ見て回れた。


「インナーはこれでよさそうだけど」


 呟いている麗美を横目に、タイトな黒いジャケットを眺めていると、


「黒はダメ。ナオミ君、何も考えずに黒ばっかり選んどるやろ」


 麗美の苦言が飛んだ。言い返す言葉もないのでパーカーやジーンズを見ていると彼女の声がひときわ高く響いた。


「これ、いいね」


 見ると、袖にフリンジのついたプレスリーのような革製のボレロだ。


「でもそういうのは演奏のじゃまに――」


「いいからちょっと当ててみて」


 麗美の言葉に、えび茶色のジャケットを羽織ってみる。


「いいじゃん」


 結局、彼女の選んだそのジャケットとダークグレーのインナー、赤みを帯びたストレートのジーンズを買った。計一万二千五百二十円を払った彼女に、


「俺、ホントに金ないんやけど」

 帰り道に呟くと、


「こういうとはね、投資って言うとばい。あたしからナオミ君への投資」


 その言葉は午後の空に溶けて、少しばかり前を歩く麗美が撒き散らす煙草の煙に消えた。



 お買い物に満足したのか、マンションに戻るなり麗美はソファーに腰を埋めている。


「ナオミ君、コーヒー淹れて」


 彼女はお気に入りになった『西高東低』を繰り返し聴いている。命名が誰かは伏せ続けようと思う。


 僕はマグカップをふたつ並べてインスタントコーヒーに湯を注いだ。


「熱いよ」


 テーブルに置くと、


「コーヒーは熱かとが基本」


 そう言いつつカップを口へ持っていくと、熱っ、と呟いていた。そして不意に、


「あたし、今日は用事あるからストリート行かんよ」


 そう言って煙草を消した。


「何の用事?」


「まあ、野暮用」


 深く訊ねるのも気兼ねして、僕はストリートの準備を始める。今日の一曲目は唄い慣れてきたブルーハーツの『チェインギャング』にしよう。などといつも決めて出るのだが、現場に着くと気が変わっていたりする。


「じゃ、麗美。行くから」


「うん。頑張ってきて」


 午後七時。表へ出ると涼しい風が心地よかった。西の空はほのかに明るい。


 思案橋の人波は普段通りだ。老若男女が入り混じり、ある人は電停へ、ある人はアーケードへ、ある人は銅座方面へ向かっている。そんな人波を見て、やはり今日は尾崎の『誰かのクラクション』から始めようと思った。


 喉の調子はまずまずだ。あと三週間、この調子をキープしなければならない。今どれだけ唄えようとも本番に声を潰していては何にもならない。要するに気分に任せて唄いたいだけ唄うということは出来ないのだ。


 が、そんな時に限ってリクエストが相次ぎ、


「お兄ちゃん『卒業』唄ってよ」


「俺、『シェリー』」


 限界キーばかり注文が入った。


 それでもなんとか唄い終えると、


「よかったばい」


「コーヒー飲まんね」


 と、それぞれ百円玉を投げてくれた。


 そろそろ『西高東低』の練習時間かと思い、買いたてのCのハープをホルダーにつけた。何よりまだボーカルが安定していないので、そこにハーモニカを入れるのは至難の技だった。


 しかし、そんなたどたどしい練習風景の中にもチップは落ちる。その都度頭を下げ、ギターのコードを間違えた。


 これは曲を完璧にするのが先だと理解した僕は、しばらくハーモニカを外す。なるべくギターコードを見ないように、目線は真っ直ぐ。弦を弾くピックは滑らかに。


 ――見知らぬ人に道を尋ね 片隅に春を探す

 ――吹き抜けた風に目を細め 西行きの回送列車


 長崎本線西の果てのこの街に西行きの回送列車はないのだが、北行きにすると演歌になりそうだったので西にした。


 ――秋に色づけたふたりの恋も 風がいつか答えを変えてゆく

 ――空に茜雲 心を染めて 雪に戯れた眠りの中で

 ――終わらない夏を心に抱けば 人はいつか温もり離れてく

 ――帰れない場所へ憧れ続けて


 ひと通りのことを試してみたつもりだが、唄い出しの音程だけが上手く出せないのだ。ならば全体のキーを上げれば、と思ってみても今度は上のキーが追い付かない。要は僕の声域全部をフルに使いこなさないと唄えない曲だった。須藤さんが「難しい歌」だと言った意味が今頃になって分かった。そこへ、


「今日はどうですか」


 日向那由多がやって来た。ギターを抱えている分、ブラックな方の彼女のようだ。


「こないだの『西高東低』の出だしでつまづいてて」


「出だし?」


「歌い出しのキーが低くてね」


「……私が名付けやったんですから下手な演奏しないでくださいね」


「あ、ああ。それと命名の話は麗美――いつもいる彼女にはしないでおいて欲しいんだけど」


「別に……いいですけど。じゃ私、電車乗るんで」


 と、横断歩道に向かったはずの彼女が振り返り、


「それから低いキーの時は、なるべく遠くへ声を飛ばすイメージでやると出やすいと思います」


 それだけ言うと、今度こそ電停へ向かった。


(遠くへ声を飛ばす……)


 よく分からない例えだったが、僕はそのイメージの下に何度も唄い出しを練習していた。


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