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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
29/272

29・(日)9月2日

          29(日)9月2日


 八月が終わり、まだ日中は暑さを引きずる九月がやってきた。


 頭のどこかで、


(十九日は理恵の誕生日か)


 と呟いたが、何の感慨もなしに心を閉じた。


 八月の後半は雨も多かったが、なんとか毎日演奏に出かけていた。日々の貯蓄は千円の時もあったものの、何より宿の心配をしなくていいので助かっている。助かっているだけじゃダメなんだろうけれど、今の僕は彼女のマンションなしで生活が出来ない。


 珍しく麗美が早起きしたのは、路上宴会の翌日だった。ウイスキーのボトルと氷とプラカップを下げた兄さんが目の前に陣取り、集まる客に酒を振る舞っていた。要するに飲み過ぎた。


 僕は彼女の温もりの残るベッドでグダグダしていたが、


「ナオミ君、お昼だよ。もう起きたら」


 すっかり化粧をした顔で寝室を覗き見た彼女に起こされた。そういえば今日は日曜だ。


「あたし、二時から予約とさ。一回、夕方に終わるけど、多分二次会に連れ回されるけんさ。ナオミ君も唄いに出るよね?」


 うん、と重い頭を振りながら起き出すと、彼女が淹れたコーヒーがテーブルにあった。今日はカフェオレだ。飲み過ぎた翌日の定番を彼女はよく知っている。


「じゃね、行ってくるから」


「行ってらっしゃい」


 彼女を見送るとシャワーを浴び、迎え酒に缶ビールを一本もらい、ギターを出してソファーで構えた。隣近所の苦情もないので、最近は時間があるとギターを出して弾いている。課題は例のフレーズだ。


 全体的なメロディーの構成は出来ている。それは鼻歌で唄えるほどになっていた。ただ、いかんせん歌詞が浮かばないのだ。いつだったか永沢さんが「眠いでも頭が痛いでも歌詞になる」と言ってくれたが、そこから一歩抜け出した歌にしたかった。中学生の作文のような歌詞にはしたくなかったのだ。


 麗美のいない静かな部屋で、煙草に火をつける。僕にとって今大切なのは何だろう。唄うこと。ギターを弾くこと。そして麗美のこと。


 並べてみても歌詞にはならず、たまには昼から本格的に飲むかと、昨夜残っていたポケットウイスキーをボトルのまま飲んだ。


 ――ポケットのウイスキー空けたら もう一度○○を待とう


 ふと浮かんだのは、そんなフレーズだった。何かの、旅立ちの歌のような始まりだ。雨でもない、風でもないと、その始まりをどうするか悩んだところで、○○の箇所は「雪」に決まった。雪を待って旅に出る、すごく過酷な旅立ちのようだ。旅立ちは朝だろうと、


 ――白い朝が東へ昇り 冬が街を離れる頃に


 次の歌詞はすんなりと決まった。冒頭の雪は冬の始まりではなく、冬の終わりの雪なのだ。その発想はイルカの『なごり雪』からもらった。


 出だしの小節が決まったので、次は同じメロディーラインに別の歌詞を乗せる。最初が「ポケット」なので韻を踏む言葉を探したが、


 ――チケットの行き先忘れたら まだ君に会えるけれど

 ――乾いた埃まみれの空 千の虹を越えてゆく


 愛する人を離れて旅に出るせつなさと、待ち受ける眩しい未来が交差する、独特の歌詞になった。


 ――やがて俺も南へ走る 置き忘れた遠い夏を取り戻すように


 Fmが効果的に入り、そこでずっと描いていたサビと繋がる歌詞になった。


 ――君の涙雲 北へ流れて 雪解けの笑顔 彼にも届け

 ――めぐる星の下 人は流れて そして風向きはいつも明日へ


 言葉と風景が、頭の中に目まぐるしく浮かび上がる。

 ギターは手癖だけで奏でながら、


 ――すれ違う雲は西と東へ 終わらない旅を季節に乗せて

 ――それぞれの明日を探し続けてる


 歌詞はそこで止まった。気がつけばワンコーラスが完成していた。


 僕はギターを弾き下ろし、生まれたての歌詞を頭からなぞる。小声で唄いながら身体中に鳥肌が立つのが分かった。初めて出来た自作の曲に、指が震えていた。


 それから興奮を冷ますように煙草を一本吹かし、それから一時間がかりでメロディーを完成させた。オーバーヒート気味の頭を冷やすために、もう一本バドワイザーが必要だった。


 ふと思い立ち、スタジオDに電話をかけてみた。受付でも出るかと思えば須藤さん本人が出て、


『杉内君? 調子はどう? いい感じにやってる?』


 機嫌のいい感じで須藤さんが電話に出た。


「実は今からスタジオをお借りしたいんですけど」


『今から? えっとねえ、四時までだったら空いとるよ。そのあと高校生のバンドが使うから』


「それでいいです。一曲録音させて欲しい曲が出来たんで」


『すぐ来れるならいいよ。その代わりウチも商売なんで二時間二千円もらうけど』


「構いません。今から行きます」



「久しぶり。チケットの売れ行きはどげんね?」


 スタジオに向かう階段で須藤さんが訊ねてくる。


「とりあえず路上で三枚売れましたけど」


「なあに、先は長かよ。ストリートやったら足を止めた人相手やけん意外に売れるよ」


「だったらいいですけど」


 スタジオに入ると、どうやら僕のためにセッティングはすんでいた。先日、デモを録音した時と同じだ。


「そういえば『出来た』って言ってたけど、オリジナル?」


「はい。正真正銘の出来たてで、忘れないうちに録音しておきたくて」


「ははっ、そりゃ期待してよかね」


 要領はこないだと同じやけん、と言う須藤さんにうなずき、僕はギターと譜面を用意する。須藤さんはガラスの向こうへ移り、ミキサーの卓をいじっている。


 音の調整、諸々が終わり、レコーディングが始まると、僕は深呼吸で息を整えてOKサインを出した。須藤さんの手が上がる。


 F‐Em‐Dm‐Cと難しいコードはそうそうない。頭に描いたリズムで前奏を弾く。出来たての譜面を目で追いながら、ずっと温めてきたサビに入った。その時、


『ちょっとやり直そうか』


 須藤さんの声がヘッドホンに響いた。僕は中途半端に演奏を終える。


『譜面の位置、もうちょっと中央に寄せて。まだ覚えてなかとやろ? マイクから顔が逃げとるよ』


 マイクというのは意外に繊細らしい。ギターの押さえと譜面と両方見やすいように左寄りにしていたが、難しいコードは弾いてないのだし、譜面は真正面でよかった。


「すみません。もう一回お願いします」


 須藤さんの手が上がる。


 今度こそ最後まで唄い切ったが、須藤さんは頭の後ろで両手を組んで、


『全然ダメやん。もう一回』


 そう言って笑っている。そして、


『ダメ。サビになったらいきなりリズムが走っとる』


『声、出とらんよ。こないだの尾崎の方がまだマシ』


そんなやり取りが四回続き、自信を失いかけた頃に、


『この歌はね、いきなりボーカルがオクターブ上がったりブレス位置が厳しかったりで誰が唄っても難しい歌やけん。それを作った君はすごいんやけど、歌に振り回されたらいかん。もっと、作った時の気持ちを思い出して、余裕持って唄ってみらんね』


 余裕を持ってと言われても、僕には息を整えるだけで精一杯だ。


『もう一回。次の予約もあるけん、ラスト』


 いつまでもあると思っていた時間が、時計を見れば残り十五分だ。僕はこのテイクに賭けるつもりで挑んだ。すると、


『OK! 終わろう!』


 ギターをまとめてブースを出ると、


「お疲れ。今テープに落としよるけんね」


 須藤さんは缶コーヒーを手に笑ってみせた。


「すみません、お忙しい時に。これ、二千円でよかったですか」


 僕が財布を探ると、


「よかよか。今日は俺の暇潰しやけん」


 そう言ってお金を押し戻された。そして、


「さっきも言うたけど、この曲は難しかよ。さっきもベストテイクは録れんかったけん、ストリートで練習して、今度のライブで披露してくれんね」


 褒められたのかダメ出しされたのか分からなかったが、僕は小さくうなずいた。


 一階のフロアに戻ると、楽器を抱えた高校生たちが四人集まっている。


「じゃ、また何かあったら電話してくれんね。美人マネージャーさんにもよろしく言うとって」


 ビルの外に出るとまだまだ暑さは厳しく、手にしたカセットテープを見つめながら思うのはライブのことばかりだった。


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