25・(木)8月16日
25(木)8月16日
精霊流しも終わり、盆明けの思案橋は暇だ。
だからといってストリートを休むことはしない。今僕は、また毎晩二千円を麗美に預けている。アパートを借りる費用のためだ。
理恵が来てから一週間経つが、家族の誰も顔を見せない。銅座に飲みに出るのは兄貴ひとりだが、その兄貴が顔を出さないというのならば安心してよかった。家族はもう僕を見離しているのだ。
すっかり慣れた思案橋の風景の中、街路樹はいちばん緑を色濃くする季節だ。これから迎える秋はいったいどんな歌を連れてくるだろう。そう思えば心の中に小さく風が吹く。
長渕剛の『巡恋歌』をようやくハーモニカ付きで唄えるようになったので、一曲目をそれに決めて唄い始める。僕が街に馴染んだのか、街が僕に馴染んだのか、通り過ぎる人たちはもう珍しそうな顔はしていない。
基本、演奏が盛り上がるのは、バイト上がりの麗美がやって来る午後十時過ぎからだ。酔客もその辺りから増え始め、僕を見ると楽しそうに小銭を投げていった。
麗美はなるべくバイトを増やしているようで、多い時は週四回コンパニオンのバイトに出ている。一件の店に決めないのは「女の子同士のもめごとが嫌い」だからだそうだ。それでも本人曰く、もうじき百万円貯まるらしい。思えば彼女が通販カタログを眺めているのはよく見る光景だったが、何を買った、という報告はない。恐らくそれは読書であって、物を買う行為に繋がっていないのだ。
「お疲れ様」
今夜もバドワイザーが届く時間になり、僕はまず缶ビールを開ける。
「お疲れ」
すると、
「疲れたよー、最後に残った客がしつこくてしつこくて」
言いつつ、仕事上がりのビールを開ける。今日のバドワイザーはいつにも増して冷たく冷えている。
「ナオミ君、ブルハやってよ」
僕はビールで喉を鳴らし、譜面をめくる。
『チェインギャング』を道いっぱいに叫んで、僕はため息のようなブルースハープを紛れ込ませる。それはだらしないギターに絡んで、僕なりのブルーハーツになる。
そこへ寄って来たのは、スタジオDの須藤さんだった。彼は麗美の隣に立って、腕組みをしている。顔色は読めない。何か含んだもののある表情だった。
曲が終わると、
「杉内君、久しぶり」
そう言って気さくに笑った。
「二日ぶりです」
僕は先日のレコーディングの手応えでもあったのかと思っていたが、
「それはそうと、今度駅前でやってる連中も集めてストリートミュージシャンのライブを企画しようと思ってね」
業務連絡を伝えられてしまった。すると麗美が、
「よかたい、やれば?」
バドワイザーを片手に軽く言ってのけた。
「マネージャーさんはそう言いよるばってん、杉内君はどうね」
僕は考える時間が欲しかったが、
「お客さん呼べるか分かんないですけど……それでもよかったら」
「よかよか。詳細は追って電話するけん。ところで今日は、こないだの尾崎を聴きたかね」
「はい」
曲が終わると須藤さんは千円札を一枚ケースへ入れ、
「楽しみにしとるけん」
柳小路へと消えていった。涼しい風が吹き抜けると麗美が寄ってくる。
「すごかね。ライブすると? 友達呼ぶよ」
そして、
「ライブっていえば、最近サザン行ってないね」
「ああ……そういえば」
「今日、平日やけん橋詰さんおらんよ。ナオミ君もノルマばっちりやし、顔出そうか」
「そうやね」
と決まれば店仕舞いはあっという間で、ふたりして篭町へと向かった。
「マスター久しぶりー」
紫色のカットソーの麗美が元気にドアを開けると、客はカウンターにひとりだけだった。確か、ライブで会った髪の長い永沢さんだ。
マスターがグラスを拭きつつ、
「おや麗美ちゃん久しぶり。ナオミ君も、噂はちょこちょこ聞いとるよ」
するとカウンター中央に座った麗美が、
「噂? どげん噂?」
興味津々の顔でマスターに訊ねた。僕は麗美の右隣に座り、永沢さんに挨拶していた。
「思案橋で唄ってる若い子がおるってね。高校生なんかは駅前に行くでしょ。それで珍しかみたいやねえ」
すると麗美は、
「そういうことより、評判は?」
「悪か噂は訊かんねえ。長崎も賑やかになってよかね、と皆、言いよるよ」
「そっか」
そこへ不意に永沢さんが、
「歌が上手いって評判は聞くよ」
「きゃあ、やっぱり!」
とりあえずそれで満足したのか、彼女はオーダーを入れていた。コーラのカクテル、キューバなんとかだ。
「ナオミ君はビールで?」
「あ、はい。お願いします」
バーのビアサーバーから注がれたビールは何物にも代えがたい。最後までしっかりと泡が残って、滑らかな舌触りが続くのだ。そこらの瓶ビールではどうにも真似出来ない。
麗美はしばらくマスターと歓談している。僕のライブの話のようだ。
僕は席をひとつ空けた右隣の永沢さんと、ビールを舐めながら語っていた。
「じゃあ、今はストリート一本でやってるんだ」
「まあ、他に長続きすることがないんですよね」
「いや、立派だよ」
短く言い切ったその言葉は、何よりの励みになる。
「あとは――」
と言ったのは永沢さんで、ウイスキーのロックを掲げた彼は、
「飯を食えるレベルまでに持っていければいいけど。デモテープ作るとかね」
「デモテープですか」
「しかもオリジナルのね」
「オリジナルですか……」
そこで僕は無言になる。ストリートで唄い始めて三か月、いまだにオリジナル曲を作れる気がしない。
そんな僕の心を読んだか、
「何でもいいんだ。眠いでも、頭が痛いでも、字数を決めてコードに放り込めば歌になる」
彼は長い髪を掻き上げて席を立った。
「じゃ、マスター行くよ」
「はい、それじゃまたどうも」
マスターはドアの外へ見送りに出る。
そんな後姿を見ていた麗美が、
「永沢さんって、不思議な人やね」
今さらそんなことを言っていた。
マスターが戻ると話はスタジオDのライブの話になっていた。
「須藤さんはやり手やけんねえ。そうそう簡単に声かける人じゃなかよ」
マスターはあご髭を触りながら自分の言葉にうなずいている。
「ライブハウスの方は見てないんですけど、広いんですか」
僕が訊ねると、
「百席はあったじゃなかかなあ」
「百、ですか……」
「どっちにしてもそうそう広いハコじゃなかったと思うよ」
百人入るなら充分に広い方だと思ったが、百人の前で唄っている自分というものを想像するだけで足に震えがきた。
「何か緊張してきました……」
僕はビールをひと息に飲み干す。
そんな様子を見て麗美が、
「なんば緊張することのあるね。ナオミ君は一日に何千人の人に見られとるとやけん。百人ぐらいなんともなかろう」
そう言われればそうなのだが。
「あたしも友達十人連れて行くけんね。頑張ってね」
そう言うと、カクテルを飲み干した。
「じゃあマスター、おやすみ」
「はいはい、おやすみなさい」
外へ出ると蒸し暑さが身を包んだ。明日は雨かも知れない。




