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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
23/272

23・(金~月)8月10日~8月13日

          23(金~月)8月10日~8月13日


 二カ月が経った。街中にいてもセミの声がうるさい夏の真っただ中、長崎では昨日、原爆記念日の平和祈念式典が行われ、そしてまったく関係ない場所で、僕は借金を返済し終わった。


 梅雨時を乗り切るのは大変だったが、麗美のアイデアで看板を作ってからは立ち止まる人足も二倍になった。『路上シンガー ナオミです! 尾崎豊他唄います!』


 段ボールに書かれた看板が最初は照れ臭かったが、酔客もそれにつられて集まっていた。何より譜面を買い、毎日一曲の覚悟で新曲を覚えていた。リクエストの多い歌謡曲中心で、毎日のノルマは新曲と麗美に渡す二千円だった。毎日二千円は無理なことも多かったが、麗美の管理の元で借金を返せたのは確かだ。


 ――「――ありがと、麗美」


 クーラーの効いたマンションのリビングで、僕と彼女は向かい合っていた。


 ――「ううん、ナオミ君の実力さ。で、これが完済の領収? でさ、カード持ってるやろ。出して」  


 金融会社のカウンターでは「全額返済でよろしいんですか?」と不思議な顔で何度も訊ねられた。こっちの方が不思議だった。


 僕が財布から二枚のカードを出すと、


 ――「では、コイツに今からハサミを入れます」


 マジックでも始めそうな口調で麗美が言う。


 ――「ハサミ?」


 ――「うん。だってね、全額返済した優良顧客には限度額アップっていう悪魔の契約がついて回るとよ。簡単に言うとこれ一枚で五万円限界やったとが十万円借りられるようになるとさ。合計二十万。怖かろ?」


 ――「ああ……怖い」


 ――「だからハサミで……よし、終わり。二か月間ご苦労さまでした」


 麗美はハサミで真っ二つに切ったカードを屑籠に投げ入れて満足げに笑った。


 そして今夜。思案橋入り口――。


「ナオミ君、お疲れ! バドワイザー持ってきたけん」


 ミニのデニムスカートでポニーテールを揺らしながらやってきた彼女に、ずっとリクエストされていたブルーハーツの『チェインギャング』を唄った。夏場でも白いスーツの長場さんが通りがかり、「頑張れよ!」と声をかけていった。


 午前零時になると本日の演奏は終了で、喉に負担をかけないように早く上がれる時は早上がりするようになったのも変化といえば変化だ。


「ナオミ君どうする? どっか食べに行く?」


「じゃあ、久々にリンガーハット?」


「うん。行く行く」


 いつも通り彼女の食欲は旺盛で、ダブルちゃんぽんを頼んだ麗美に対し、僕はミニちゃんぽんと餃子のセットだった。瓶ビールはお決まりだ。


 食事も終わり、ビールの残りを減らす中で、


「麗美。あのさ、返すものがあるんやけど」


 僕は財布を手に、今日いちばんで入った一万円札を取り出した。


「長いこと、ごめん。もう変な借金はせんから」


 麗美は一瞬呆けた顔を見せたが、すぐに笑顔を作った。


「確かにいただきました。あとは本格的な部屋作りやね」


「部屋?」


「ナオミ君の部屋。こうして少しずつでも蓄えられるって実績が出来たとやけん、次はアパートでも借りればよかたい」


 今では当然のように麗美のマンションに世話になっていたが、それは確かに不自然な毎日だったのだろう。しかし、少しずつストリート収入が安定しているからといってアパートまで借りられるだろうか。


「正確には、あたしとナオミ君のアパートになると思うけどね。前に言うたろ? 今のマンション出たくてたまらんとさ」


 彼女は平気な顔で言ってみせる。僕はその返事は保留にしてひとまずマンションに戻った。


 花火と爆竹の音で日本一うるさい長崎の精霊流しを目前に控えた世間の盆休み。思案橋前の人波も普段より少なかった。


 昨日覚えたばかりのアリスの『遠くで汽笛を聞きながら』を唄っていると、電停から視線を感じた。ままあることなので気にもとめなかったが、視線の主は信号が変わるとこちらへ近付いてきた。


「ナオミ君……」


 いつか起こりうることだったがそれが今日とも思わず、僕は演奏の手を休め、その視線と対峙した。理恵だった。盆休みに入っているのか私服で、胸に大きなリボンのついた白いワンピースを着ていた。


「久しぶり」


 他に言葉もなく、僕は缶コーヒーを口に含み、作るべき表情に迷っていた。


「お母さんたち、心配しとるよ」


 なんだかんだで僕の家族とは親しげだ。


「そうなん。でも俺、帰らんけん」


 ようやく表情の決まった僕は煙草をくわえ、火をつけながら答えた。無表情を貫くことにした。


「女の子のとこにおると」


 予想通りの問いかけに、


「そうやったとして、何も問題ないやろ」


 すると彼女は結んだ両手を胸に当て、


「ひどい……」


 そう言ったきり黙った。


「もう俺のこと構わんでいいけん。理恵とは終わったつもりやけんが」


 人目もはばからず泣き出した彼女に焦りはしたが、今さら態度を変える気はない。


「どうしてそげん、自分ばっかりで決めると……」


 僕は煙草を右手に周囲を気にしていた。ここに麗美が来れば目も当てられない。


「とにかく仕事中やけん」


 短く状況を伝えると、彼女はあきらめたように涙を拭い、


「私、何か悪いことした?」


 縋るような目つきで最後にこぼした。


「いや、悪かとは全部俺やけん」


 実際、その通りだった。心変わりという彼女にとって手痛い結末を招いたのは僕自身だった。


 理恵は何ごとか逡巡している様子だったが、それ以上は何も言わず歩き去った。長い黒髪が人混みに消えた。これですべて終わってくれればと、僕は身勝手に煙草を吹かした。


「お兄ちゃん、長渕は唄えるとやろ。知り合いから聞いとるぞ」


 四十代のスーツ姿の男性が現れたのは、午後十時だった。


「古いやつを少しずつですが」


「よかよか。何か唄うてみんね」


 男性はすでに千円札を一枚投げ、ギターを見つめている。僕は譜面を開き、


「『TIME GOES AROUND』という歌を――」


 最近では少しずつ慣れてきたその曲を、三カポで唄った。


 僕の中ではまずまずの演奏が終わると、男性は軽く拍手をした。そして、


「尾崎もいけるとやろ? 唄うてみて」


 何かオーディションでも受けている気になりつつ、僕は譜面をめくる。そして、最近練習している曲に決めた。


「『傷付けた人々へ』という歌です」


 Gコードを弾き下ろすと唄い始めた。男性は腕を組み、さっきより難しい顔で聴いていたものの、曲が終わると大きな拍手が響いた。その後ろから顔を覗かせたオジさんが千円札を入れて笑顔で歩いて行った。


「尾崎の方がよかね」


 二度うなずいた男性は胸ポケットから名刺を取り出すと、一枚、僕に差し出した。そして、


「名前は?」


「杉内直己です」


「じゃあ杉内君。新大工の方でスタジオやっとるけん。よかったら暇な時でも遊びに来て。あ、ギターも持ってね」


 それだけ言い残すと銅座方面へ歩いていった。名刺には、スタジオD代表取締役・須藤稔と書いてあった。


 十時半になってバイト上がりの麗美が来ると、名刺の話をした。


「スタジオって、歌ば録音するところよ? ナオミ君、デビュー出来るとじゃなかと?」


 嬉しそうにバドワイザーを飲み干した。


「けど、詳しい話は聞いとらんし」


「だけん、聞きに行くとさ。明日あたし休みやけんさ。行ってみよう」


 午前一時にギターを仕舞うと、コンビニに寄ってマンションへ戻った。怪しい話ならば断わればいい。


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