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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
22/272

22・(月~)6月11日~

          22(月~)6月11日~


「いやあ、疲れた」


 マンションへ帰ったのは十二時前だった。久しぶりに千円札が三枚入ったところで麗美がストップをかけてきたのだ。


「今日は宿代いらんけんね」


 彼女は僕の借金のことは何も知らない。この二週間、ストリートとサウナで無事にやり過ごせたと思っているに違いない。


「でね、お土産。博多の女と、長浜ラーメン生めん、で、あたしのパネル写真」


 見れば、チャイナドレスで化粧をした麗美が映っている。完全に作り笑顔だが。


「お店の入り口に置いてる指名の看板ね。映りのよかったけん、もらってきた」


 しかし、何よりの土産は彼女自身だった。


「博多どうだった? 忙しかったんやない」


 僕が訊ねると、彼女は大袈裟に手を広げ、


「だってね、すごいんよ! 毎日あっちこっちでドンペリ開けるし、中州はいつも人で一杯やし! 屋台も朝まで満席やったけんね。大都会やった」


 それを聞くと自分も博多に出張していればよかったかなと思いつつ、そんな度胸はないとバカな考えを消し去った。僕は思案橋の隅で通行人に怯えながら唄っているのがお似合いだ。


「ナオミ君、なんか食べた?」


「夕方にたこ焼き食べたけど」


 浜屋デパートの屋上だ。


「もっとちゃんと食べんね。あたし向こうで稼いだけん、奢るよ。何がいい?」


 五秒ほど考え、


「きしめん、かな……」


「じゃあ川瀬。決定ね」


 マンションに荷物を置き、きしめん屋へ行くと席は程々の埋まり方だった。僕らは入り口付近の二人がけの席に座る。


「あ、もう冷やしきしめん始まっとった! あたしこれ!」


「じゃあ俺も同じで」


 当たり前のようにビールを頼む彼女は、


「あのね、昨日は最終日やけんていうて、チップいっぱいもらったとよ」


 そう言って麗美は財布を出してみせる。そこには束になりそうな一万円札が詰まっていた。僕の借金がすべて飛んでいきそうな額だった。


 冷やしきしめんは美味しかったが、なんとなく会話は途切れがちで、それは来週に迫った返済日のことを考えていたからだ。なるべく元本を減らすように考えれば一万円は返さなければいけない。リボ払いの怖い所は払っても払っても元の貸付額がなかなか減らないことにある。


 そういったことを考えていると、ビールも味がしなかった。


 彼女のマンションへ戻ると、


「二週間、お疲れ様。やっぱナオミ君て強かね。心配した私がバカやった」


 首筋の鎖のほつれを直した彼女が目を閉じてあごを上げた。僕は魔法がかかったようにその唇へ口づける。リビングにも入らず玄関先で、しばらくふたりで身を寄せ合った。


 ソファーに落ち着くと、麗美がコーヒーを淹れてくれた。その理由は、


「ナオミ君、ビール進んでなかったし」


 ということだった。彼女は人をよく見ている。昨日演奏を聴いてくれた人の顔すら翌日に忘れている僕とは大違いだった。そのせいでチップを不意にすることがあった。


「でも久しぶりに歌聴けてよかった。毎日お客さんの下手か唄ばっかり聴いとったけんさ」


 話の内容より何より、ともかく麗美の声が嬉しい。根拠はないが明日からはどうにかなると思えた。そこには日々の出費がこれで少なくなるという気持ちもないではなかったが、とにかく麗美がいるという事実だけで気が楽になった。


 それから数日、梅雨の晴れ間は続き、場所替えなしで唄えた。毎晩彼女の届けるバドワイザーを飲んでは、酔客に紛れて唄った。寝る場所の心配もない。ただ、毎日の収入では週末の返済日に間に合いそうになかった。


 久しぶりに雨の音で目覚めた金曜日。


 まだ眠っている麗美をベッドへ残し、リビングでコーヒーを飲んだ。財布を開けると六千円しか入っていない。二枚目のカードから下ろして返済に充てようかと思うも、それこそ自転車操業の始まりでやがて火の車になることは明らかだった。


 そんな時、部屋の隅に置いた麗美のバッグが見えた。そこから赤い革の財布がはみ出している。

 麗美は眠っている。雨の日は特に起きない。


 僕は瞬間、心を殺した。人の理性を捨てた。


 音もなく彼女の財布を抜き取り、中身を確かめる。カードと領収書の混在する財布の中、一万円札が数枚入っていた。彼女の性格上、一枚くらい抜いても分かりそうになかった。


 その瞬間――。


「ナオミ君? 起きとったん」


「ああ……コーヒーでも飲もうと思って」


 すると彼女は、


「あたしが淹れるよ。待っとって」


 彼女はそのままキッチンでヤカンに火をかけ、トイレへ向かった。すんでのところで財布を隠した手がガクガクと震えている。一瞬でもバカな考えを持った自分を殴りつけたかった。それから財布をもとの場所へ戻した。


 トイレから戻った彼女は、マグカップを用意して、シューシュー湯気立つヤカンを手にした。


「ナオミ君さ、なんか困ってない?」


 コーヒーを手に戻った彼女はテーブルにカップを置き、まずはそう言った。


「別に……ないよ」


 すると彼女は言った。


「お金、困ってるやろ? 前に見たカードのヤツ? ああいうのはさっさと返した方がいいよ」


「なんでそれを――」


 先の続かない僕に、


「あたしね、財布動いたら一発で分かるとさ。別にナオミ君を責める訳じゃないよ。そげんとこにほったらかしとる自分が悪かとやけん」


 ついには無言でうつむいた僕に、彼女は優しさに溢れた声で告げた。


「ちゃんと、返済計画立てよ。協力するけん」


 そこで自分が犯そうとした罪の大きさに触れ、僕は情けなくも涙を流した。泣きながら彼女へ謝った。


「二週間、大変やったとやろ? 頑張ったね」


 違う。僕は何も頑張っていなかった。人が寄りつかなくなったらすぐに唄うのをやめ、荷物をまとめてサウナへ向かっていた。何を我慢する訳でもなく、三日置きに引き出す借金を自分の金だと思い込んでいた。


「ごめん……俺……」


 背中を丸めて謝罪する僕に、彼女が覆いかぶさる。


「よかって。あたし言ったよね。ナオミ君のこと守るって。ずっと守るよ。ナオミ君のこと、誰が何と言おうと守るけん」


 麗美は冷めたコーヒーをレンジで温めると、


「せっかくやけんカフェオレにしてみた」


「……うん」


「これからはさ、ストリートで稼いだお金、私に二千円ずつ預けて」


「うん……」


 それは自分でも考えていたことだった。そして実践していたはずなのだ。なのに金は貯まらなかった。


「こういうとってね、手元にお金があったら何となく使ってしまうとさ。だけん、別の人に預けるとがいちばん」


「分かった」


「今、いくらある?」


 僕は素直に財布を開き、六千円の残りを見せた。


「で、今日返済日なんやろ? 最低返済額いくら?」


「三千円くらいかな。でもそれじゃ元本がいくら経っても減らんで」


「そんなもん? ナオミ君、これすぐに返せるよ。心配せんで」


 そして立ち上がり、自分の財布を手に取ると、


「今日は、手持ちにこれだけ合わせて払ってこんね」


 言いつつ、一万円札を一枚出した。


「でも……」


 戸惑っていると、


「これはあたしからの貸付。利息なしの期限なし。ナオミ君だったら絶対返せるって信じとるけん」


 うなずくまで一分かかったが、麗美の言うとおりだった。こんなもの、早く返してしまえばいいのだ。


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