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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第三部・OH MY LITTLE GIRL 1991年
200/272

19・(金)8月16日

          19(金)8月16日



 那由多の不調は一過性のものだったようで、火曜日の終わりには復調していた。仲井間さんの話では、歌姫と舞姫も何とか無事にステージを終えたようだった。が、


「お願いですナオミさん。AQUAだけついてきてください。お願いですから」


 縋るような目で訴えられると、どうにかしてあげない訳にもいかず、


「じゃあ元々俺のステージだからな。お前のステージをひとつ減らして俺がワンステージ唄わせてもらう。客の少ない七時台だ。それも、国木田さんがOK出したらの話だぞ」


「それでいいです」


 AQUAへ着いて事情を軽く説明すると、国木田さんはあらたまって、


「どうぞ。お好きな感じに」


 頼りない笑顔で告げた。


「とにかく今日はCDの宣伝に集中。MCも考えとけよ」


「はい」


 一昨日の歌姫と舞姫ではでは七枚のCDが売れたらしい。もちろんその売り上げは岡崎興業側に渡るものなのだが、直接販売の中で手応えを感じているようでもあった。


 控室でゆっくりする暇もなく、僕のステージが始まる。今夜は僕もオリジナルステージだ。『ささやかな渋滞』から始まって『置き去りの夏』『Baby baby』ではリハーサルで調教ずみの女の子たちが手拍子をしてくれた。ラストは『西高東低』だ。二組の客はどうでもよさそうに聴いてくれている。


「お疲れ様です」


 控室へビールを持ってきたのは樹里ちゃんだ。


「ナオミ君、こないだのライブ、よかったあ」


 そして、


「お姉さんのもよかったです。胸にね、じわあって広がる感じで」


 那由多はボソリと、


「ありがとうございます」


 うつむきがちに答えた。


「樹里ちゃん、こいつにカシスソーダ作ってくれる?」


「分かりましたあ」


 彼女が控室を出ると、


「すぐ女の子と仲よくなるんですね」


 無表情な那由多が言う。


「お前、勘違いしてるけどさ。こういうとこでは現場の人間と信頼関係作らなきゃダメなんだぞ。俺が女の子とばっかり仲よくしてるか? 国木田さんだってNOAの勝沼さんだって、岡崎さんだって俺は上手くやってるつもりだ。そうじゃなきゃ、今日みたいなわがまま通らないんだぞ」


「ナオミさんが世渡り上手だっていうのは分かります。けれど私はそれが苦手なんです。いつもクラスの端っこにひとりで座ってた人間なんです」


 樹里ちゃんがドリンクを持って来てソファーに座る。


「私、この間CD買ったんですよ。『都会の暮らし』って歌がすっごい好きになりました。私、高校出てすぐひとり暮らししてたんで、猫のエサの話とかすっごい分かって」


 樹里ちゃんは明るく話題を提供する。


「那由多、こう言ってくれてんだぞ。なんかひと言ないのか」


「ありがとうございます……」


 そう言ってようやくカシスソーダに口をつけた。


「今日、唄ってくれるんですよね?『都会の暮らし』」


「……一曲目にします」


「やったあ!。じゃあ私、お客さん来るんで戻ります」


 樹里ちゃんが出て行くと、


「CDって怖いです。誰がどんなふうに聴いているのか、分かりませんから……」


 VIPルームの外では客が立て続けに入っている。四組だ。国木田さんがカウンターのCDを指差しつつ今日の催しを説明している様子が伺える。


「そろそろ時間だな」


 僕が煙草の火を消すと那由多はギターを手にした。僕を見つめる瞳には翳りが見える。


「大丈夫だ。俺がここにいる」


 ドアが叩かれる。


「日向さん、お願いします」



 那由多のステージは女の子メインで聴いてもらえた感じだ。客もうるさそうにはしていなかった。二千円のCDは一枚だけお客さんに売れた。それでも売れたのだ。そのことをまずは喜ばないといけない。


 那由多はキャンペーンだったが正規のギャラをもらった。僕もワンステージ分のギャラをもらう。九時半の中州へ出ると熱気がひどかった。


「じゃあ私、このまま路上出ますんで」


「ああ。俺も十一時まではやるよ。早や上りした方が合流な」


「はい」


 慣れ親しんだ路上で唄い始めて三十分。なぜか那由多が駆けてきた。


「はあ、今、ラジオの人が来てて、なんか番組で紹介してくれるって言ってるんですけど、はあ」


「乗れよ! すぐOK出して連絡先交換するんだぞ!」


「はい、分かりました」


 その判断すら自分で出来ないのはここ数日の自信喪失のせいなのだろう。結局何がトリガーだったのかいまだに分からない。


 少しずつケースの小銭を増やしながら、今後待っている遠征が気になった。地方ライブイベントは基本的に菅原さんとふたりらしい。ナスティアーティスト――主にSalty CannonやTIMESが開拓した店に向かうのだが、彼女のメンタルが気になっていた。早くあの、ふてぶてしいブラック那由多が戻る日を僕は待っている。


「お兄ちゃん久しぶりやな。元気しとったか」


 やって来たのは僕の一回り上の鴻上さんで、中州初期から声をかけてもらってる。


「最近はお店のステージとかイベントが多くて」


「ふうん。忙しかならよかことたい。なんかオリジナルば聴かせてくれ。心に染みるヤツ」


 僕は彼にまだ未発表だった『ささやかな渋滞』を唄う。最近はギターリフにもてこずらなくなったので間奏にハープを入れる。


「おし、よかった。ビール代にせえ」


「ありがとうございます」


 本日一枚目の千円札に頭を下げていると、右手からトボトボ歩いてくる那由多の姿が見えた。雰囲気的には敗戦兵だ。が、ちょっと様子は違う。その後ろにお姉さんが立っている。ショートカットの、にこやかな人だ。


「こんばんはあ。私、FBCラジオの殿村梨花と申します」


 笑顔で名刺を出してきたので慌ててこちらも名刺を返す。


「それで、ご用件は?」


「はい。さきほど日向さんのお歌を聴かせていただきまして、ぜひ番組内でご紹介させていただきたいと思ったんですが」


「ですが――?」


「ええ。杉内さんの方にも翌日ゲストでお招きして中州のストリートミュージシャンをリレーしようかという話になったんです。もうおひとり、いらっしゃるんですよね?」


 仲井間さんのことか、と小さくうなずく。


「大変嬉しいんですが、彼女と違って僕はまだオンエア出来る音源がありません。僕は飛ばして――」


「いえいえ、スタジオの方で弾いて唄ってもらって構いませんよ?」


「いや、何よりまだ僕の歌お聴きになってないですよね」


 少し醒めた気持ちで訊ねると、


「そーおですよね! じゃあ、何かおひとつ得意な歌をお聴かせください」


 どうもこの人とは波長が合わないと思いつつ、『西高東低』を唄った。


「すごいじゃないですかー! パワー溢れる歌声で! ぜひぜひ、ご出演願えませんか」


 面倒だと思いつつも、こういうことは事務所経由だなと返事を週明けに回した。とりあえず仲井間さんの唄う中州会館も教えておいた。


 その後は荷物をまとめた那由多を相手に唄い、


(ラジオか……)


 僕としても初めてのことなので先が見えなかった。自分のことはとにかく、那由多の売り出しに力添えできるならと似合わない出演を半分承諾した。事務所に話を通せば、もろ手を上げて賛成してくれるに決まっている。そこにリスクはないのだから。


 追加で入った千円をポケットに収めて、久しぶりに川端のラーメン屋へ向かった。気がつくと二回も替え玉をしていたが、那由多は相変わらず一杯のラーメンとのんびり格闘していた。お互いに無言だった。機嫌がどうこうという訳ではなく、ラーメンを食べる時というのはそうなるものなのだ。


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