表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
2/272

2・(日・月)5月13日~14日

          2(日・月)5月13日~14日


 朝九時にホテルをチェックアウトすると、真っ直ぐに駅前のパチンコ屋へ向かった。客付きの悪いホールで、「裏で出玉を調整している」という噂の絶えない店だった。


 パチンコは高校を辞めた十六の時、正確には辞める三か月前から遊んでいる。歳で言えば十五歳だったが、ジーンズにジャケットを羽織り、サングラスをかけた僕に当局の指導は入らなかった。単純に見逃してもらっているだけだったかも知れない。


 ギャンブルにのめり込むには、誰しも大勝ちの経験が必要だ。そしてそれが今日、訪れた。

 

 派手な連チャン機もない時代、十分ごとに大当たりを続ける僕の台の後ろにはドル箱が積まれていった。朝九時半に打ち始めて、夕方の五時には二十箱が積まれていた。換金すればおよそ十万円だ。周囲はまったく白けきっていたが、僕は早目に切り上げることにした。詰まれてゆくドル箱がしだいに怖くなっていたからだ。朝から飲み続けている缶コーヒーとふた箱吸った煙草で気分が悪くなっていたこともある。


 果たして十万数千円の勝ちを手に真っ直ぐ向かったのは消費者金融のATMだった。返せる時に返しておこうと、昨日下ろした五万円全額を返済した。それでも手元には八万六千円が残っている。大金が手に入ると逆に手堅くなるもので、その日は駅前の安いカプセルホテルに泊まった。そして蜂の巣のような狭い部屋でシーツに包まり、この金を使っていったい何が出来るかだけをひと晩中考えた。


 が、結局は何も思い浮かばぬまま朝を迎えた。


 朝九時半に外へ出て、今日もパチンコを打とうかと考えつつ、いいことは続けて起きないと自分を諫め、街中のファッションビルに入って二万円の黒いセットアップスーツを買った。


 二日ぶりの家に帰ると誰もいなかった。父母と二人の兄は仕事で、弟たちは学校だ。僕は郵便受けの中から鍵を取り出し、引き戸を開けると部屋へ向かった。


 風呂は昨夜のサウナで腐るほど入っているので、下着を洗濯に出し、買ったばかりの黒いセットアップスーツを身体に当ててみた。こうなると新しい靴もいるな、と思いながら、台所へ行き、インスタントラーメンの湯を沸かした。


 誰もいない家は落ち着く。


 僕はしばらくラーメンを啜る。


 僕はもしかして独り暮らしが向いているのかも知れない。父母に二人の兄、三人の弟。八人家族という生活は自分に向いていないのかも知れない。そう思うが無職の僕がひとり暮らしを始めるには難関がいくつもある。金のこともそうだが、保証人に立つ人間に当てはない。父母は真っ先に反対するだろうし、それを思えば高校三年間を無難に過ごし、遠くの大学へ行ってもよかったのではないかと思える。


 思い始めると妄想は止まらず、不意に舞い込んだ金の行方を考え始めた。が、有益な使途は思い浮かばない。


 妙案も浮かばず煙草ばかりが減ってゆく部屋で、最後には、このままパチプロにでもなって日本中を巡り歩こうかなどと考えだす始末だった。


 それはそれとして、思い立った僕は押入れに父の使っていた古いボストンバッグを見つけ、そこへ何を入れるか考えていた。何にせよ数日分の着替えくらいは必要だろう。


 と、その時、さらに押入れの奥でブチンと、何かの切れるような音がした。ギターの弦だった。中学時代に遊びで弾いていたギターだ。瞬間、僕の頭の中にはこれだと閃くものがあった。


 当時、駅前では何組かの青年たちがストリートパフォーマンスと称してギターを弾いて唄っていた。運よく拾われて東京へ行った人もいるらしいとは夕方のニュースで聞いていた。そこまでの人間になるつもりはなかったが、今の僕にはとにかく打ち込める何かが欲しかった。それがギターであろうとパチンコであろうと、同列に見做していた。要するに、暇ばかり持て余した若さの塊だったのだ。


 そうと決まれば行動力だけは人並み以上にあり、汚れたギターケースの中に一緒にあった替えの弦を確かめ、ボストンバッグに着替えを詰め、弟たちが帰る前には街中へ戻っていた。今日から僕は長い家出に入る。


 夜七時の中央橋はバス待ちの人に包まれていた。まだ大荷物に慣れず、四苦八苦しながらバスを降り立つと、女子高生たちの華やかさが迎えてくれた。頭の中には甘いお菓子を詰め込んだ、夢見がちな少女たちだ。


(どこか……場所を探すか)


 人混みに埋まるアーケードを横目に中島川を上流へと上る。眼鏡橋に代表される石橋群の脇には若い柳が揺れている。その背後、市民会館のある魚の町公園で腰を下ろした。弦の交換など数年ぶりで上手くいくか分からなかったが、六弦から順にさびた弦を引き抜いて交換していった。ラジオペンチとニッパがご丁寧にケースへ入っていたのでそれを手に、使い古した弦を取り替えていった。


(あとはチューニングだけど……)


 生憎、二股の音叉もピッチパイプもない。チューナーなどあろうはずもない。


 仕方なくまだ空いている楽器屋へ寄り、この際とばかりにハーモニカ三本とハーモニカホルダー、ストラップに音叉と買えるものはすべて買った。古びたハードケースが目立つのか、店員がしきりに気にしていた。ギターはYAMAHAのFGだ。それ以外のギターを僕は知らない。


(これで準備はOKだ)


 僕の言う準備は、路上演奏の準備だった。高一の頃、いつか十八くらいになったら出来るかな、程度に思っていたことが不意に実現しそうだった。手持ちの曲をすべて思い出せれば十曲はある。曲は尾崎豊ばかりだった。


 しだいに薄暗くなる街の空はブルーグレーに僕を包む。そろそろ時間だと、浜の町アーケードへ向かって歩き出した。


 この街いちばんの目抜き通りは慌ただしかったが、横道へ逸れると人もそぞろだった。その逸れた道端で心臓を高く鳴らしながら座り込み、ギターを取り出す。中学の頃使っていた譜面も一緒だ。


 午後八時になった。僕の準備は遅々として進まない。なんだかんだで怯んでいた。たまに駅前で見るミュージシャンたちを、


 ――「あれくらい俺だって」


 と見下していた自分を恥じた。そこで感じたのは、譜面台くらい買うべきだったということで、しかし楽器屋はもう閉まっており、今夜はこれでいくしかない。何より足りないのは物ではなくささやかな勇気だった。


 微かに、細やかにギターを爪弾き始めたのはそれから三十分後だった。と言えば聞こえはいいが、地味に弦を撫でているだけだった。気がつけばピックもない。路面電車の通り過ぎる音がやけに大きく響く。本来ならそれに負けずに唄わなければならないのに、ギターはおろか、声すら出せずにいた。


「お兄ちゃん、流しさんね」


 急に聞こえた声に顔を上げると、濃いあご髭にサングラスをかけた五十くらいの男性が立っていた。。


「あの、なんていうか初心者なんで、色々は出来ないんですけど」


「よかよか。それよりウチの店に来んね。酒はただで飲ませてやるよ」


 どうにも僕はこういう男の人に好かれる性質らしく、


「いえ、まだ始めたばっかりなんで。また」


 すると男性はあっけなく、


「そうね。じゃあ、頑張らんね」


 そう言うと去って行った。


 お蔭、というのも何だが、気の抜けた僕はそれから少しずつ路上演奏を試していった。カラオケとはまったく違う声の張りに、ギターのリズム取り、そういったものを意識しながら唄い始めた。歌は親に連れて行かれるカラオケスナックで鍛えられていたし、譜面を床に置いているので通行人の目に怯えることもなく、それはしばし没頭するのにちょうどいいデモンストレーションだった。そこへ、


「頑張って」


 閉じたギターケースの上へと小銭が置かれた。驚いて顔を上げると、買い物帰りのオバちゃんといった風情の女性が笑顔で立っていた。人生初の路上チップだ。


「ありがとうございます……」


 肌が粟立つほどの快感は、今も忘れられない。金額は百二十円だったけれど、そこにはパチンコの大当たりを凌ぐ興奮があった。僕のギターと歌に金が落ちたという現実は何ものにも代えがたかった。


 気をよくした僕はそれから極力前を向くようにして唄い始めた。数年前に触っていただけでまだまだ覚束ないギターと歌で、それでも通りゆく人々が足を止める理由にはなった。


 しかし、そのあとが続かない。人々は曲の終わりを上手く察知して、次々に離れてゆくのだった。

 ただその中に、Tシャツにニットのタンクトップを羽織った、赤いキャップの女の子が残った。


「こ、こんばんは」


 つい卑屈になった僕へ、


「ブルーハーツは歌えんと?」


 彼女はガムを噛みながら言った。


「大体、尾崎豊ばっかりなんで。すみません」


「別に、よかよ。尾崎でよかけん何か唄うて。ベストのやつ」


 ベストと言われても持ち歌のない少ない僕は、つい開いていた譜面から『僕が僕であるために』という曲を選んだ。


 楽器屋でカポを買い忘れたため、今まででいちばん低いキーで唄った。彼女はポケットに手を入れて身じろぎもせず立っていた。


 それでも今日いちばんの出来栄えで唄い終えると、彼女は五百円玉を丁寧にギターケースへ置き、


「お兄さん、向こうの方で唄うた方がよかよ。思案橋の方。酔っ払いも流れてくるけんね」


「はあ……」


「じゃ、よかったよ。頑張ってね」


 賑わうアーケードの向こうへ歩いて行った。


 僕はひとまずの達成感を手にして、荷物をまとめるとサウナへ向かった。麗美に会ったのはそれが最初だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ