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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
19/272

19・(土・日)5月26日~27日


          19(土・日)5月26日~27日


「今日は何か幸せー」


 ソファーの上で悶える麗美はキャラクターが変わったように顔面崩壊している。僕は余裕のある胃袋にバドワイザーを流していた。


「ナオミ君、あたし変かな? 何か酔っ払ってきたんやけど」


「ビール飲めば酔うよ」


「あー、もう。なんでもっとこう喜ばんかな。長場さんといい、きしめん屋のオジさんといい、ナオミ君がこの街で注目されとるってことよ?」


 それは確かにそうだった。しかし僕には手放しで喜べない事実もある。


 ――お兄ちゃん、こないだサラ金屋から出て来たろ

 ――こないだの髪の長か女の子はどうしたとね

 ――昨日のパチンコはどうやったね


 そんな言葉がいつ飛び出すか分からないのだ。こうなると昼間の動向さえ誰かに監視されている気分になってゆく。


(大丈夫だ。何もしなければいい。それだけのことだ)


 ソファーでゴロゴロしている麗美を置き去りに、僕は先にシャワーを浴びた。浴びながら、この生活自体が公にされたくないことだと思ってもいた。ここは家を飛び出した僕にとってシェルターだ。隠れ家なのだ。


 リビングに戻ると、今度は呆けている麗美がいた。白黒ストライプのクッションを抱え、ニュースの天気予報を見ながらぼんやりしていた。灰皿の上で煙草が線香になっている。


「明日、雨だって」


「俺としては雨は日曜に降ってくれる方が助かるけど」


「じゃなくて、このまま梅雨入りかもって」


 それは確かに困る。思えば来週から六月だ。


「ナオミ君、雨降ったらどこか当てあると?」


「昨日今日で見たとこ、思案橋ビルの前がなんとかいけそうやったけど。土砂降りになると対処出来んかも」


「やろ? アーケードってダメなんかな」


「飲んだ人は逆側のタクシーで帰るから。あとは……」


 考え込んだが浮かばない。


「もっと奥に入り込んだところでもいいかもよ」


 と麗美は言うが、そこまでの勇気はない。飲み屋街の奥に踏み入るほど、最初に体験した以上の荒事が待っている可能性だってあるのだ。


「いいよ。今はあそこでやることだけ考えてれば。そうなった時はなった時で考えるし」


「ふーん。やっぱナオミ君って逞しかね。じゃあ、あたしもシャワー。洗濯あったら出しとって」


 言い残して彼女はバスルームへ向かう。


(こんな生活がいつまでも続けばいいのに……)


 そんなことを夢想しながら、しかし先行きは不安だった。今日の稼ぎも週でいちばん入るはずの土曜日に五千円レベルだと、返済も上手くいかない。いつまでもここにいられるはずもない。その時に考えればいい、という言葉は何も考えたくない言い訳だった。


 午前二時を回ってようやく就寝時間がきた。窓際に麗美で、僕は丸いガラステーブル側だ。セミダブルのベッドでは身体があちこちと触れ合う。それを楽しんでいるのが今の僕らだ。


「ナオミ君――」


 天井を見つめていた麗美がふと呟いた。そして、


「あたしもね、ナオミ君と一緒で家出したくて、それで今、バイト代貯金しよるとさ。百万円貯まったら家ば出ようって」


 僕は無言で聞いている。


「ナオミ君にはね、すっとここにおってよかよって言いたいかとけど。今のままじゃいつ母親が来てもおかしくなかけん」


 僕は何も言わない。


「でね、考えたとやけど近くにアパート借りようかなって。ナオミ君じゃ借りられんやろ? そしたらあたし、貯金崩して借りてもいいなって。ただ、そういうとってナオミ君が嫌かなって思って」


 煙草を手に取ろうと思ったが、そういう雰囲気ではない。僕は彼女と同じように白い天井を見つめて、乾いた唇を開く。


「俺のためっていうなら、いいよ。自分のことは自分でやりたいし、じゃないと家出した意味ないけん」


「そう……。そう言うと思った。今の話、忘れてよかけん。あたしが勝手に思っただけの話」


 麗美は身体をこちらへ向け、


「キスしていい?」


 それならばもう――。


「もう二回もしてるやん」


「ううん。そうじゃなくてちゃんとしたキス」


 答えを待たず、彼女は僕に覆いかぶさり、唇を重ねた。それは乾いた砂が水を吸うようにたやすく吸い付いた。いつしか泣いていた彼女にも気付かず、僕は口づけに応える。


 軽く舌先の触れ合う口づけが終わると、彼女は僕を見下ろす体勢のままで言った。


「あたしね、ナオミ君のこと守ってやる。絶対にね」


 彼女の涙が僕の頬を濡らす。冷たく、それでいてどこまでも優しい涙だった。


 そして手を繋ぐと、眠りに落ちた。今の彼女となら同じ夢すら共有出来そうだった。



 翌朝は彼女が先に起きていた。


「今日はゆでたまごモーニング。喫茶店のごたるやろ?」


 ジーンズに脚を通してリビングへ向かった僕に、やけに上機嫌の麗美は卵の殻をむきながら、


「あたしね、やっぱり部屋借りる。これは自分のためっていうのがあって、ホントはここにおるとも嫌とさ。母親のマンションやけんね」


 僕は三角に切ったトーストにマーガリンを塗って、


「お母さんと仲悪いと?」


「ていうか性格から服のセンスまで何から何まで違うけん。あたし父親似やけんね」


 父親というのは例のキョウシンカイ会長のことだろうか。


 僕がゆで卵に塩を振ってかぶりつくと、


「保証人は父親でよか。歳取って出来た娘やけん、あたしに甘かとさ」


 麗美は外の雨を気にする素振りを見せながらトーストをかじる。他人の家族の事情というのはよく分からないものだ。


 食事が終わると音符を拾いながら、麗美の広げた雑誌のクロスワードパズルに答えるという時間が続いた。左耳でウォークマンを聴きつつ、右耳で彼女に答えていた。


「『あ』で始まって『む』で終わる五文字。ガラスやアクリルなどでサイコウセイ? を高めた大規模な空間」


「アトリウム」


「アトリウム、ね。すごかねナオミ君。スラスラ解けるよ」


「それはそうと――」


 僕は採譜を一字中断して、


「ギター弾いてもいいかな。少しつまづいてるとこがあって。音は小さくするけん」」


「いいよ。ここの人、騒音にあんまり文句言わんし」


「そうか」


 僕はケースからギターを出すと軽くチューニングしてソファーでコードを弾き下ろしてみる。長渕の


『COMEBACK TO MY HEART』という曲だ。


 壊れた愛の歌が八畳のリビングに冷たく落ちる。恋というテーマは、歌の世界では断然失恋が多い。それまで積み重なった感情がダムのように決壊する勢いがあるからなのだろう。そして僕は何度もギターを確かめ、コードを振ってゆく。


 雨の日曜日。クロスワードを続ける麗美と採譜を続ける僕の間に、不意にチャイムの音が鳴る。


 麗美が立ち上がる。


「ナオミ君、ここにおってね。顔出さんでね」


 そして玄関先へ向かう。


 ドアが小さく開く音がして、女性の声が聞こえた。麗美は、


「電話してから来てっていつも言うとるやろ」


「だって急いでたのよ。あら、お客さん? 挨拶しなくていい?」


「いい、早く帰って」


「そうも出来ないのよ。三十分後に人と会う約束だから」


「……」


 麗美はリビングに戻ってくると、


「ナオミ君、ちょっと出よう。荷物はそのままよかけん」


 見たことのない険しい顔を見せて身繕いを始めた。僕は何となく察するところがあったので逆らわずギターを仕舞った。


「あら、レイちゃんのお客さん? お世話になってます」


 母親にしては若作りの女性がそろそろとリビングへ入って来ると、


「そこの荷物、触らんでね。彼の商売道具やけん」


「まあ、バンドの方なの? 素敵ねえ」


「もう、色々言わんでよかけん、夜には戻るけんね。出て行っといてよね」


 随分棘のある親子の会話だったが、他人のことが言える身分でなし、僕は会釈だけで玄関へと抜けた。


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