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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第三部・OH MY LITTLE GIRL 1991年
189/272

8・(日・月)6月30日~7月1日

          8(日・月)6月30日~7月1日



「悪いな。つき合ってるんだ」


 仲井間さんは敷いたままの布団の上で、ジーンズにTシャツといった格好で言った。


 チエミさんは申し訳ないといった顔で、カーペットへ直に座って拳を握っている。


「で、このことなんだが事務所に――」


「言いませんよ。私的な話ですから」


 僕が言うと、那由多も強くかぶりを振った。


「すまねえな。気い遣わせて。ゲホッ」


 那由多が寝ているように促したが、


「起きてる方が楽でな。昔っから喘息持ちで、横になると息苦しくなる。それより昨日のステージありがとな。彼女から聞いたよ」


「いえ、仲井間さんに勝手に尾崎まで唄いました」


「唄うのは自由だよ。それが受けるかどうかは毎回違うしな」


 そこへ突然、那由多が割って入った。


「仲井間さん、今度ウチで鍋やりましょう。ウチの杉内シェフは和食から中華イタリアンまで幅広くカバーしております。ご安心ください」


「ははっ、なんだそりゃ。忘年会の予約か何かか」


 咳き込みながら仲井間さんが笑う。


「じゃあ僕ら帰ります。おじゃましました」


「ああ、明日はとりあえず定例も出るわ」


 玄関先まで送りに来たチエミさんが、


「ホントにお願いね。内緒でね」


「安心してください。口は堅いんで」


 そして僕らはアパートをあとにした。


「で、どなたなんです、あの人」


 興味津々で食らいついてくる那由多には、


「内緒だよ。言ったろ、口固いんだ」


 梅雨の晴れ間の茜空がきれいだった。



 今日から七月だ。気分だけ衣替えすることにして、いつものジーンズに麻のジャケットだった。


「はい、定例の朝礼始めます。今月の岡崎興業さんのステージ予定は壁に張り出してます」


 ついにコピー用紙までケチり始めたか。


「えー、仲井間さん、土曜日のステージは杉内さんに代役頼まれたようですが、大丈夫ですか」


「大丈夫です」


「今月半ばには日向さんのCDプレスが終わって納品される予定です。皆さんお嫌いな作業のようですが、後輩のためを思ってパッケージ作業をお手伝い願います」


 はーい、とやる気のない声が上がる。


「菅やん、ちょっとね、この13日土曜日にナオミンをレンタルしたいんやけど」


 僕のことかと隣の小川さんを見ると、ニヤリと笑った。


「それはブッキングステージということですか?」


 菅原さんが魚のような目を見開いて訊ねる。


「いやいや。メインはTIMESで、その一員としてさ。なんかその日パーティー予約らしかけん、派手にやりとうてさ。ナオミンよか?」


「えー、その辺は個人間で決めてください。土曜日といえば杉内さんも路上の稼ぎ時でしょうから」


「その辺はステージ数増やして、ワンステージ分ナオミンにギャラやるけん。よかやろ? ナオミン?」


 僕は、はあ、とうなずくしかない。


「では、何もなければ定例終わります」


 僕は真っ先に座った小川さんに、


「先に言ってくださいよ」


「悪か悪か。土曜日にストリート行ったらおらんかったけんさ」


「それで、どんな感じをやればいいんです?」


「んー。それ考えよっとばってん、三ステージ中の真ん中でナオミンのステージにしようかねって。で、あとはハープ吹けるとこは全部絡んでもろうて。ダメ?」


 関さんと甲斐田さんは何も言わない。


「いいですよ。迎えがあると助かります」


 甲斐田さんが親指を立てる。これで岡崎興業系列の五店舗制覇となるわけだ。


「じゃあ決まりやん。ぶっちゃけあそこギャラはまあまあばってん、酒も飲み放題やし、よう考えたら物件的にはよかけんね」


「それで、客層ってどんななんです?」


「んー。三十代くらいがいちばん多かかな。俺たちと変わらんぐらいの。まあ、ナンパ目的の連中の多か店やけんね。女も多か。一生懸命唄うたらもったいなかばい。オイも最近手の抜き方覚えてね」


「でもそうなると僕のステージ、カバーがいいんじゃないですか。オザキ系ですけど」


「うん。だけん今日の内にリストアップしてもらおうと思うて」


「じゃあ不本意ですけどバラードでいかせてもらいます」


 話が長くなり始めたので、那由多は仲井間さんと同じタイミングで帰った。


 僕はソファーで歌本を囲む。いざという時のため、歌本はいつもある。


「まず『I LOVE YOU』でしょ? で最近あちこちで人気あるのが徳永英明なんで『レイニーブルー』と『壊れかけのRadio』。あ、これ歌本ないんで。今から起こしましょう。それから三十代なら『愛しのエリー』で決まりじゃないですか」


 その後はそれぞれのキー設定をして、壁のギターで『壊れかけの~』と『レイニー~』を弾きながら関さんが譜面を起こす作業が続いた。皆、真面目なミュージシャンになっていた。


「んじゃ、本番ぶっつけになると思うけど、まあ上手にやろうや」


 関さんの言葉に笑いつつ、マンションに戻った。



「ナオミさん、電話がありました」


 僕は上着をハンガーにかけつつ、


「誰から?」


「麗美さん」


 くわえかけた煙草を思わず床に落とし、


「なんだって」


「何でしたら直接お聴きになってください。今、電話中なんで」


 見れば彼女の左手には受話器が握られている。


「早く言えって!」


 受話器を奪うと、


「もしもし、俺だけど」


『ナオミ君、久しぶり。忙しくなかった?』


「今、事務所で色々あって戻ったとこ。で、何の用だった?」


『うん。もう言うたけどね。日向さんのレコ発ライブ、行けるけん』


「ホントに?」


『旦那から聞いて、ひとりでも行きたいって言ったら、いいよって』


「ひとり? ひとりで来るの?」


 つい声が大きくなる。那由多の耳が動いた。気がした。


『その日さあ、会社の統括会議らしくて。本社が東京に動いたけんね。福岡じゃなかとさ』


 彼女の声は健やかだ。重苦しい何をも連想させない。


「とにかく気をつけて来て」


『うん分かった。ナオミ君も頑張ってね。それじゃ切るよ』


 そして、時間にして一分半の長距離電話は切れた。そして、


「ナオミさん。声のトーンがいつもより高かったです」


「電話っていうのはそういうものなんだよ」


 顔も見ずに言った。


 ソファーに座った那由多がテレビ視聴しているのを横目にギターを弾いていると、無言でボリュームを上げられた。どうやら僕が寝室に向かう番らしい。


 立ち上がり、


「今日はNOAだろ。なんか譜面整理とかないのか」


 那由多は、


「もうセットしてます。お構いなく」


 何か悔しかったが、僕は無言で寝室へ向かった。麗美の電話で彼女が苛立っているのは聞かなくとも分かった。

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