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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
18/272

18・(土)5月26日

本日もパラパラと投稿予定。よろしくです。

          18(土)5月26日



 消費者金融のATMへ向かうのは、これで三度目だった。今夜は麗美が見に来るというのに、無様な姿は見せたくなかった。少しでも賑わったギターケースを見せてあげたいという、見栄だった。それでも借入残高はまだ二万円。返済日は二週間後。最悪の場合は返済日にもう一度現金を引き出し、利息分だけ戻すというリボ払いの奥の手がある。元からそれを知っていた訳ではないが、直感的にそれで乗り切れると思っていた。


 思案橋へ向かうと人の流れは多く、チップは期待出来そうだった。


 今夜は彼女が来るまで酒は抜きだと気合いを入れ、いつもの尾崎ナンバーを唄い始めた。相も変わらず不思議そうな顔をして通り過ぎる人や、遠目に気にしている人もいる。僕もそれには慣れていたので、愛想よく笑顔を見せていた。


 小銭が五百円ほど入った七時台を越えて唄っていると、


「ナオミ君! あとでね!」


 バッチリとメイクを決めた、ワンピース姿の麗美が横断歩道を駆けて行った。僕はピックを握る手を挙げて応える。


 宵の口、九時までに三人の人が足を止め、リクエストを頼まれた。うちひとつが長渕の『順子』だったので、不本意ながら唄うと千円札が入った。歌は知っているが苦手な曲というものも存在する。


 九時台へ突入すると一旦人の流れが止み、ケースの中を覗くと千八百円とあまり芳しくなかった。なので持ち出し金をサクラに、三千円投げておいた。そうすると通りがかる人は驚いたようにケースを見てゆく。果たしてそれが「こんなに儲かるものなのか」と驚いているのか「この人、上手い人なのか」と勘違いしているのかは分からない。


 ただ、二週間の路上演奏で理解したのは、人はそれほど曲を聴いていないということだった。これがレパートリー八百曲なんていうプロの流しならば演奏の対価として投げ銭が出るのだろうが、僕の場合はまだまだ「何か知らんが頑張ってるから」という理由で小銭を投げてゆく人がほとんどだ。そして、それはそれで構わない。


 そのまま今日三回転目の尾崎ナンバーを唄っていると、横断歩道の向こうに麗美の影が見えた。と同時に、


「おう少年、今日も稼いどるやっか」


 苦手な橋詰さんが銅座方面からやって来た。


「お蔭さまで……」


 なんとか挨拶を返す僕の下へ、麗美が駆け寄る。


「ナオミ君、差し入れ」


 いつものバドワイザーだ。すると黙っていないのは橋詰さんで、


「レイちゃんどげんしたと! きれいに化粧してから!」


「ああ、バイト上がりです」


「そいで、彼の歌ば聴きにきたとね」


「ええ。好きなんです、彼の歌」


 いつもの彼女らしくない敬語は違和感だらけだ。


 すると橋詰さんはあろうことか、


「こげん下手クソか歌聴くよりオイが唄うてやるばい。サザンに行くけん、来んね」


 その台詞に切れたのは僕より麗美が先だったようで、


「ナオミ君の歌、全然下手じゃなかです。橋詰さんの歌より心がありますから」


 それに切れたのはもちろん橋詰さんで、


「心ってなんか! 心のあればもうちっとマシなギター弾くばい!」


 麗美も憤慨は止まらず、


「だからナオミ君の歌が好きなんです。彼が好きなんです。サザン行くならひとりで行ってください」


 しばらく白けた顔をしていたが、彼は急にニヤけ顔になり、


「ふうん、そうね。そういうことたいね。自分がこれに惚れとるだけやろうが。そういうとは街の端っこでやってくれんね。人前で唄うレベルじゃなかとやけん、ナンパ目的なら金輪際ここで唄わんでくれろ」


 麗美は両こぶしを握って震えている。彼女ばかりに言葉を任すのは卑怯だと思い、僕はギターを置くと立ち上がった。が、


「おいコラ兄ちゃんや。ちょっと耳に入ったけん聞いとったが、どういう了見で文句つけよっとや? ああ?」


 割って入ったのはいつかの白いスーツのリーゼントの男性で、


「あ、あんたいきなり誰ね」


 橋詰さんは急展開に驚いていた。そしてそれは、僕も麗美も同じことだった。


 リーゼントの男性は穏やかに答える。


「誰かって? こん人のファンたい。文句あっとか」


「文句はなかばってん……」


 橋詰さんはすでに逃げ出す体勢だ。リーゼントの男性はなおも凄む。


「ウソばつけコラ! 金輪際唄うなとか文句つけよったろうが! ワイがこの辺仕切っとるとか! 知らんぞワイのごたる軟派モンは! ああ?」


「いや……人ば待たせとりますけん。それじゃ」


 橋詰さんは泣きそうな顔で走って逃げた。


「あの、ありがとうございました」


 立ち上がったままどうしようもなかった僕は、なるだけ丁寧に頭を下げた。そして、麗美もそこへ追随する。


「長場さん、ありがとうね。何かメチャクチャすっきりした」


 どうやら麗美とは顔見知りらしい。


「よかとよ麗美ちゃん。さっきの話はマジやけんね。オイはこん人のファンやけん」


「でしょ? ナオミ君ていうと。これからも目ばかけてやって」


「麗美ちゃんに言われんでも、もうあげんヤツは近寄らせんたい。じゃあ行くけん。お兄ちゃんも頑張って」


 颯爽、という言葉がぴったりの男性は、白いスーツをなびかせて夜の銅座へ消えて行った。


「なんか……ごめんね」


 と言ったのは、思いがけず彼女の方だった。


「いや、巻き添えになったとは麗美の方やし」


「あの人、酔うたらいつもあたしに言い寄ってくるとさね。で、めんどくさかけん『彼氏のおる』て言うとったとさ。だけん、巻き添えになったとはナオミ君の方。許して」


 僕は椅子に腰を下ろし、

「いいよもう。あげん人の話。それより新曲聴いてくれる? 長渕なんやけど」


「聴く聴く。あ、ビールも飲んでね」


 僕は差し入れのバドワイザーを開ける。麗美も開ける。そしてガードレールと道の端でそれを掲げた。


「へえ、ナガブチってそういう歌もあると?」


「うん。俺も最近まで知らんかったけど」


 麗美に唄ったのは、『TIME GOES AROUND』という曲だった。ギターはそのままでは難しかったので、我流にアレンジしてある。


 それからいつもの尾崎レパートリーを唄い、最後は彼女のために『リンダリンダ』を唄った。そろそろ別のブルーハーツを覚えてもいい頃だと思っていた。


 集まった紙幣から頭の中で三千円を抜くと、残りは四枚あった。小銭はと言うと、今、麗美が数えている。


「すごいよこれ。小銭だけで川瀬のきしめん三杯は食べられる」


 よく分からない例えなので訊ねると、朝までやっているきしめん屋があるらしい。この長崎にあってなぜきしめんなのかは謎だったが、付き合ってみるのも面白そうだ。


「でね、きしめんとかやくご飯のセットがお勧めでさあ」


 食べ物の話になると口数の増える麗美が、すでに注文の決まった頭で僕の手を引いて歩く。夜の街案内は彼女に任せておけば問題なさそうだった。


 銅座町の一角、コンビニと並んでその店はあった。なかなかの繁盛ぶりで、大きなギターケースを持って入るのが躊躇われるほどだった。


「きしめんセットふたつ! それから瓶ビールも!」


 こういう時だけ声の大きくなる彼女は、心なしか頬をほころばせている。出会った頃より表情が豊かになったように思えていた。が、それはお互い様なのかも知れない。


「じゃ、とりあえず乾杯」


 彼女はグラスにビールを注ぐと言った。


「乾杯。なんか慣れとるね」


「ん?」


「いや、ビールの注ぎ方とか」


 すると、さも当然の顔で、


「だって、そういうバイトやもん。あ、あそこのお客さん絶対ビール追加するよ」


 言うや否や、


「すいませーん、ビール」


 感心している僕に、


「ね?」


 と白い歯を見せた。


 注文が届くと彼女は脇目も振らず熱いきしめんを啜った。きしめんにはカツオ節が舞い、平打ちの麺によく合った。炊き込みご飯、と言わずかやくご飯というのは関西系なのだろうかと思いつつ、味はよかったので無心で食べた。麺類とご飯を同時に食べた罪悪感はなく、ほどほどの満腹になった。


 ビールも底を尽き、そろそろ帰ろうかという時、先に席を立った隣のオジさんが、突然僕らのテーブルの伝票を取った。呆気にとられているとオジさんは振り返り、


「さっき、よか歌聴かせてもろうたけんね。奢るよ」


 と、会計に向かった。僕と麗美は顔を見合わせて、


「ごちそう様です!」


 とびきりの笑顔をオジさんへと送った。


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