102・(月)6月17日
102(月)6月17日
那由多は低めの椅子に座り、譜面を置くとギターを構えた。椅子はカウンター用の高い椅子じゃない。ドラマーが使う丸椅子に見える。彼女のために用意してくれたのだろう。
マイクに向かい、彼女が右手を上げるとBGMが消えた。ゴクリ、と小川さんが唾を飲み込む音が聞こえるようだった。
――憎しみをひとつ この手に乗せ
――悲しみをひとつ忘れ
唄い出したのはなんとオリジナルだった。『翼なき者』、僕の書いた歌詞を彼女が唄っている。唄うとしたらエンディングで、てっきりカバー曲から入るものだと思っていた。セオリーではそうなのだ。
――営みは今日も ささやかに続く
――生まれ落ちた者たちに
五組の客は静かに聴き入っている。あとは酒を飲むか煙草を吸うかだ。
――ああ いつか 雲になろう
――流れゆく先も知らぬまま
――ああ いつか 君の下へ
――翼なき人として
ワンコーラスの終わりに拍手が起こった。僕も思わず手を叩いた。そしてあらためて、この店の音響のよさを知った。カラオケパブではないので、マイクはすべてカウンター裏のミキサー卓に繋がっているはずだ。ゆえにマイクもプロ仕様だった。
小声で、
「音響どう思います」
隣りの小川さんへ訊くと、
「バッチリやろ……」
ため息混じりに答えた。そして、
『こんばんは、日向那由多です。一部はムード歌謡でお楽しみください』
そして拍手。
二曲目は小坂恭子の『想い出まくら』、三曲目は山口百恵の『秋桜』だった。そして当然の顔で、ラストの『夕凪』に入った。まるでオリジナルを光らせるためのカバー曲二曲だったかのように、そこには観客への挑戦的なものが感じられた。マイナーコードのあとの優しいメジャーコードは緊張感をほぐしてくれる。
『ありがとうございました。次のステージは九時よりとなっております』
立ち上がり深くお辞儀をした彼女に、もう一度大きな拍手が起こる。
「やっとれんぞ、こりゃ」
煙草に火をつけた小川さんに、僕はバーボンを流し込む。
「僕もそろそろ路上です。小川さん、どうされます?」
「置いていくなやこげんとこに。オイも出る」
そう言って煙草をもみ消すと、ビールを飲み干した。
出口へ向かうとスタッフがクロークから荷物を持って来てくれる。やってきた勝沼さんに、
「あの、お会計を――」
と頼むと小川さんが財布を出した。
「後輩に払わせられんけんな」
しかし勝沼さんはどちらも制し、
「杉内様からは決して代金をいただかぬ様、岡崎よりきつく申しつかっております。どうぞまたご来店くださいませ」
「そうですか、お気遣いありがとうございます」
今日こそ払わなければと思っていたが、心配することはなかった。岡崎さんならどう言ったのだろうと思えば、勝沼さんの態度にも納得がいった。
「日向の方ですが、なんとかやれてるみたいですね」
「ええ。最近では楽しみにされているお客様もちらほらと」
「僕も頑張ります。本日は押しかけてすみませんでした」
「また来週のステージの方、よろしくお願いいたします」
表へ出ると、小川さんが何やら打ちのめされていた。
「お前ら化けもんや。あげんとこで、どげん顔して唄うてよかかオイは分からんぞ」
それからどこかへ行ってしまったので、いつもの準備を始めた。月曜の夜なら遅い時間勝負だろう。
譜面を立てていると小川さんが戻ってきた。手には酒瓶が握られている。
「ナオミちゃん、ちょっと不思議な悪酔いしたけんさ。『Old Fashion』 唄わせてくれんね」
「いいですよ」
僕はDのハープを構えるとギターを弾き下ろす。
「カモンベイベー、この胸ーにーもう一度―」
それが終わると僕は尾崎シリーズを開始して、三曲ごとに休憩していた。
折りたたみ椅子に座った小川さんは、
「ナオミン、今度ウチらのライブで『Old Fashion』唄わせてもらうばってん」
「ああ、いいですよ。関さんのギター、はまりますもんね」
「オイもギター入れようかなて思うてさ。あれ二カポでCで弾けるっちゃろ」
「そうですね。G♯が入る以外、難しいコードはないんで」
そして話題はまたNOAへ戻る。
「オイたちがやっとるJUJUとか、あそこの四分の一もなかもんね。姉ちゃんたちもケバケバの化粧で柄悪かし、こないだなんか客の取り合いになったちゅうて女同士引っ掻き合いのケンカになったけんね。オイたち演奏しよるとにさ。もう、そういう店と全然違うけん。違い過ぎて羨ましさもなか」
そんな話を交わしているところへ、ステージを終えた那由多がやって来た。その姿はいつ見ても発表会帰りの小学生のようだ。
「コケシン! ようやった! オイは先輩として鼻の高かぞ。あのステージで雰囲気に飲まれんで唄うとか、バリすごか!」
「慣れますよ。何回かやれば」
強がってはいるものの、AQUAのステージを泣いて嫌がった彼女が懐かしい。
「で、チップ五千円いただきました。本日収支プラス一万円です」
「そうか。じゃあ今夜は無理せずここで休んでたら?」
「そうもいきません。家計的にはまったく足りてないんです。一緒にやっていいですか」
「ああ。いいけど」
自分のテリトリーへは行かないのだなと、不思議に思っていると――。
「ミズキちゃんに色々言ったんでしょう。私が入院してるとか」
演奏の合間を突いて不服申し立てが始まった。
「そこまで言ってないよ。大変だっていう話だけで――」
「でもビリヤード行ったんでしょう」
「それはさ、仕事上のつき合いもあって断れなくて」
「いいんです別に。お酒飲むのも女の子のご機嫌取るのも、男の人はみんな仕事ですから」
「お前だって最近、やけに仲井間さんと親しそうじゃん」
聞きづらくなったか、小川さんが酒瓶を煽ると、
「君たち、仕事忘れちゃいけんよ。お客さんバンバン通り過ぎて行きよっちゃけど」
「……」
「ナオミさん、久しぶりに『墓標』合わせてください。レコーディング頼むんですからね」
「あ、ああ」
那由多のギターに合わせてハープを入れる。それは繊細な行為のようで、実は大胆だ。大雑把とも言っていい。ただひたすら聞こえてくる音色を追いかけて、時には追い越して、ギターとハープがケンカする間際までそれは続く。僕はひとりでそれをやるが、彼女は僕への信頼なしに音を預けられない。そういう中でのセッションなのだ。
「次、『夕凪』もです」
ハープをAに替える。
――いつも夢を見てた 許されぬままに
――永き時よすべて 今 空に消え去れ
そしてハープ――。
「どうだった」
「本番もその感じでお願いします」
そこへ、
「まあ別録りやけんそげん気にせんでよかよ」
小川さんが言うので、
「そうなんですか?」
思わず訊いた。
「ギターのチャンネルとボーカルのチャンネル、それにハープのチャンネルになるけん。ミスったとこだけやり直せると」
那由多も、
「弾きながら唄えないんですか」
「そりゃ落合さん次第やろ。ライブ録りがよかならそうするかも知れんし」
「はあ……」
それは僕らの心を引き締めにかかる。人生初のCDレコーディングだった。




