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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
178/272

101・(月)6月17日

          101(月)6月17日



「えー、木曜日に落合専務が戻りますので、専務に何か話のある方は今のうちにまとめておいてください。今週の動向です。日向さん、本日NOAのステージに七時半入り。それから二十日よりレコーディングが入ってます。体調いかがですか?」


「問題ありません」


 少し意気込んだ彼女の目が、真っ直ぐに菅原さんを向いていた。


「それとTIMESさん、22日の土曜日にJUJUから追加ステージが入っていますが、これは関さんの方で了承ずみですね?」


「はーい」


「仲井間さんと杉内さんは通常通りストリート演奏ですね。こちらは何か問題起きてたりしませんか」


「そうですね、稼げないのが問題です」


 僕が言うと、


「同じく」


 仲井間さんも続いた。


「そうですか。それはまあ、なんとかご自分で乗り切ってください。では今週の定例は以上です」


 僕は仲井間さんの下へ歩み寄る。


「仲井間さん。先日はお見舞いありがとうございました」


「ああ。たまたま事務所に用事があってきたとこだったんだ。で、もういいのか」


「本人はケロッとしてますけど」


「じゃあ何よりだ。じゃあ行くわ」


「はい、ありがとうございました」


 その直後。だあー、とソファーに座り込んだのは小川さんで、


「ナオミン、ちょっと来いや。コケシンも座り」


 なにやら重大な話かと思わせといて、


「Cコード回転形マスターしたっちゃん」


 そういう話だった。


「で、でさ、オイもゆくゆくはNOAのごたるステージに立つかも知れん訳やん?」


 それはまあ分からない。ジュリーなんか似合っているし。


「でな、今日コケシンのステージやん? ちょっと関係者として覗かせてもらえんかなと思うてくさ。一応は関係者やろ?」


 どうだろう。僕も一度は覗き見した身なので、断りづらい雰囲気はあった。


「支配人の方に確かめてみます。今日の今日の話なので難しいかも知れませんが」


「頼んでみて! やっぱ後輩が唄っとるとこ見たかやん?」


「夕方には連絡しますんで、家にいてくださいね」


「OK! サンキュー!」



「いいんですか、あんな安請け合いして」


「まあ、俺も一回覗いたからな。お前のステージ」


「いつですか? それいつ?」


「こないだのステージだ。勝沼さんに頼んでこっそり入れてもらった」


「ひどいです……何も言わないなんて」


 久しぶりに頬を膨らませる彼女を見た気がする。


「緊張するかと思ってさ」


「分かってませんね。ナオミさんが見てるとなれば力にこそなれ、緊張なんてしませんよ」


「そっか……」


 確かに俺もそうかも知れない。


 部屋に戻ると電話を引きずってきて、岡崎興業の方へ電話を入れていた。勝沼さんは外しているようでかけ直すと言われた。そういう電話がいちばんドキドキする。


 煙草に火をつけてギターの鳴りを確かめていると、電話が鳴ったので飛びつく。


「はい杉内です」


『岡崎興業の勝沼です。申し訳ございません、席を外していたもので。それでご用件は』


「いえ、またちょっとした観覧希望です」


『というと前回のような?』


「いえ、もうひとり彼女のステージを見たいという人間が――彼女、今回CD発売が決まりまして」


『はあ』


 那由多は昨日買ってきたワンピースのタグをハサミで切っている。薄紅色の、梅雨真っ只中の曇り空には映えそうな色だ。


「プロデューサーが一度ステージを拝見してみたいとおっしゃってまして。どうでしょう」


『かしこまりました。お席の方、準備しておきます』


「いいんですよ、またカウンターで。八時のステージ前にはお伺いします」


 電話を切ると、ふう、とため息が出た。


「すっごいスラスラとウソが出てくるんですね。今後ナオミさんの見方が変わりそうです」


「ミュージシャンはウソで夢見せるんだよ。で、お昼ご飯の希望は」


「いいです。夜を待ちます。夜はオープンサンドイッチ希望」


「ホントに一日一食だな。少し太れよ」


 言いつつ僕は冷蔵庫の食材を数え上げる。卵にきゅうりに――。


「なんだこれスモークサーモンって」


「昨夜コンビニで見て心惹かれたんです。病み上がりの身体が欲してるんです」


 どおりで食パンを八枚切りにしたわけだ。


 面倒臭いメニューリクエストを受け、動けるうちにゆで卵を茹でて潰し、玉ねぎスライスを水に晒し、キュウリをスライスして、スモークサーモンを一枚ずつはがしてケッパーを用意した。なぜそんなものがあるのかは自分でも分からない。他の物欲はないのだが、こと調味料に関してはレストラン並みに用意しておきたい性質なのだ。だから長崎ではそうなるのが嫌で料理はしなかった。


 四時半になり小川さんに電話すると、甲斐田さんが出た。


『ちょっと待っとってね。ちょっと! ナオミ君から電話!』


 尻に敷かれている雰囲気の漂う声だった。


『おうナオミン! 今スーツにアイロンかけよったけんさ』


 その期待を裏切る結果だったらどうしたのだろう。


「とりあえず支配人には話通しましたんで、肩書はプロデューサーで来てください」


『任しとけ! バリ、プロデューサー的にしていくけん』


「七時五十分にNOAまで来てください」


『OK!』


 五時になると那由多がペコペコモードだというので、パンを軽く焼いてカットした。準備していた具材を乗せて完成だ。那由多はカップスープで僕は缶ビールを開けた。


「んー何ですかこれ。酸っぱいけど美味しー」


「ケッパーだよ。木の実のピクルス」


「玉ねぎシャキシャキ」


「大分水に晒したからな」


「ナオミさんてホントに何でも出来る」


「ボチボチ和食が食べたいな。ブリ大根とか」


「あー、それ好きです。お正月の感じ」


「じゃ、今の食材入れ替えたら和食コースだな」


 平和な食卓は平和に終わり、那由多はテレビニュースを眺めていた。六時半だ。


「そろそろ準備だろ」


「待って、この特集終わってから」


 那由多はテレビっ子だ。それは自他ともに認めている。


「んー、支度しよ」


 七時前になってようやく準備を始めるのは、すでにNOAの営業に慣れたからだろう。


「ナオミはんたちどこれ聴くんれすか」


「カウンターだろ。お客さんのじゃまになりたくないからな」


「まあ、先に行ってますけどね」


 下ろしたてのワンピースに着替え、鏡の前でクルクルと回ってみせる。フリルの感じが少し少女趣味だったが彼女に似合っている。


「じゃあ行ってきます」


 出かけたのは七時二十分だ。僕も支度を、と思いつつ、彼女と同じく下ろしたてのレーヨンシャツをジーンズに羽織るだけだった。


 七時四十分になりNOAへ向かうと、ビルの前では不審人物がキョロキョロとしていた。


「おう! ナオミン!」


「お待たせしました。ていうか結婚式ですか」


 スーツにネクタイを絞めた小川さんを初めて見た。胸にはポケットチーフまで突っ込んでいる。満面の笑みが怖い。


「まあ……すぐ始まりますんで行きましょう」


 僕が奥へ向かうと、ドアマンの男性が恭しくお辞儀をして木製のドアを開けた。小川さんは後をちょこちょことついて来る。


「杉内様、お待ちししておりました。お荷物はこちらへ」


 それから勝沼さんが案内するのはフロアの方だ。


「いいんですよ。カウンターで」


 小川さんも無口にうなずいている。


「ステージのよく見えるお席にしましたので。間もなくステージですが、お飲み物は?」


「ああ、バーボンロックで」


「お連れ様はいかがなさいます?」


「芋……じゃなくてビールね、ビール」


「すぐお持ちします。おかけになってお待ちください」


 フカフカのソファーに座ると、


「マジかこれ。ここでコケシン唄うん」


 広々と段差のついたすり鉢状に広がる赤いじゅうたんを見ながら小川さんは口を開きっ放しだった。


「今、ちょっと見えにくいですけど上段のVIPルームにいます。控室なんです」


「VIPルーム、はあ……」


 すべてに呆気にとられている小川さんが運ばれてきたビールに口をつけると、控室から那由多が出て来た。ステージの始まりだ。

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