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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
175/272

98・(木)6月13日

          98(木)6月13日



 午前中の見舞いは時間が短い。十時半から十一時半だ。


「ノートとペンな」


 はい、と答えた那由多の顔色はすぐれない。病院の用意した寝巻がなおさらそう見せる。


「まだ具合よくないのか?」


 恐る恐る訊ねると、


「またあの美味しくもない食事がやって来るのかと思うと憂うつなんです」


「まあ、病院食は不味いっていうのが基本みたいだからな」


「早くナオミさんのご飯が食べたいです」


 明日はグラタンだぞと、心の中で告げておいた。


「昨日の午後、仲井間さんがお見舞いに来てくれました」


 電動ベッドで上半身を起こした彼女が表情のない顔で告げた。


「ホントか? それはあとでお礼言わなきゃな」


「『急いでて見舞いの品もなくて』って、そればっかり気にしてました。いい話相手になってくれましたよ」


 あの無骨な彼がお見舞いかと、不思議な気分だった。彼を誤解していた頃ならば、驚いて飛び跳ねたろう。


 そして那由多は滑らかに話題を変える。


「路上はどうです?」


「あ、ああ。昨夜はがんにゃ前だったよ。馴染みの顔が次々で。今夜は何とかいつものシャッター前で唄えそうだ」


「私は十七日がNOAなんで、喉の調子整えなきゃです。戻るかな」


「勝沼さんに伝えて俺が代役受けようか?」


「いえ、自分のステージには穴開けられません。二週に一回でも覚えててくれるお客さんだっています」


 自身の体調と背負った責務。それは世間にありふれた板挟みであり、それはミュージシャンでも同じことだった。彼女の負った傷がどれだけのものだったか分からなくとも、僕は彼女の意思を汲むことしか出来ない。


「ところで職業欄に『ミュージシャン』て書くの、顔から火が出るくらい恥ずかしかったです」


「いいんだよ。実際、歌以外で稼いでないんだし」


 那由多が窓を少し開けると、涼やかな風が入ってきた。


「ホントは勝手に開けると怒られるんですけどね。こうして外の匂い嗅ぐのが今の幸せです」


 僕が時計を見ると、那由多は顔を逸らした。


「いいですよ。食事が来る前に帰ってください」


「ああ。明日は十時だって聞いてるから。それまでに来る」


「浮気しないでくださいね」


 唐突な言葉に怯んだが、あれは浮気じゃない。と、胸に刻んだ。


 病院の外に出ると空気が入れ替わったようで、彼女の気持ちが分かる気もした。病院というのはそういう場所なのだ。ある意味、負の空気が満ちている。それがたとえ命の生まれ出る場所だったとしてもだ。



 夕方までしとしと降っていた雨がやみ、定位置でのスタートになった。


「頑張るのお!」


 通り過ぎるのは赤髭だ。また自転車が変わっている。いい加減捕まればいいのにと思いながら準備は淡々と進む。


 いかにも木曜日という雰囲気で単発のお客さんが寄っては歌の途中に小銭を落としていた。今日の僕は長渕メインだ。食わず嫌いはいけないなと思い、歌謡全集を開き『GOOD‐BYE 青春』を唄ってみたら意外にイケた。


 九時を回っても雰囲気は変わらず、小銭のみの日かと天を仰いでいるとミズキちゃんがやって来た。オフの日の彼女だ。


「ナオミ君! お客さん連れて来たよ!」


 彼女の言うお客さんは大物が多い。岡崎さんを連れて来た時も同じ台詞だった。が、連れのオジさんは気乗りしてなさそうだ。


「なんでんよかけん一曲やれ」


 なんでんと言われたら今の僕には武器が多過ぎて悩むところだ。とりあえず無難に『とんぼ』でも唄ってみた。


「分かった分かった。まあ頑張れ」


 オジさんは財布を出すと、どうでもよさそうに千円札を投げた。


「おいミズキ、行くぞ」


「ナオミ君ありがとねー。またあとでー」


 ミズキ効果なしか、とは思わない。振るわない木曜にありがたい千円札が落ちたのだ。


 ただしミズキ効果は遅行性だったようで、十時半辺りから暇を持て余したオジさん達が寄りつき始めた。皆、遠目に見ているが、一曲終ると拍手をくれる。しかしリクエストはないという状態で二曲唄っていると、


「お兄ちゃん。『神田川』ば唄うてくれんね」


 千円入った。


 なるほどそういう曲待ちかと、『神田川』に続けて『二十二歳の別れ』を唄うとチップが入り始める。じゃあ次は覚えたての拓郎かと思い、まずは『落陽』を唄うと少しずつ人垣が増えてゆき、少々唄い過ぎた喉を休めるために、


「ありがとうございます。一旦休憩です」


 その言葉で解散になった。なったところへひとり残ったオジさんが近付いて来た。オジさんというよりはお爺さんが近かった。


「あんた歌の上手やねえ」


 そして静かに千円札を置いた。


 僕はウイスキーのポケットボトルを口にして、


「ありがとうございます」


 堂々と煙草に火をつけた。休憩中は休憩中なのだ。


「私もねえ、若か頃にトランペットば吹きよったとよ」


 オジさんは口をモゴモゴさせつつ過去を懐かしむ。


「トランペットですか。すごいですね」


「西鉄ライオンズの応援団長でさあ、スタンドでパッパカパッパカ吹きよったと」


 野球ファンではないのでその凄さが分からない。が、驚いておく。


 昔語りは戦時中の話にまで広がり、オジさんの話は尽きないかと思わせたが――。


「今からお兄さんに一杯奢りたいけどねえ。よか店は知らんかねえ」


 僕はケースを覗き、四千円と小銭を確かめ、きっとこれは終了の合図だと思った。時刻は午後十一時二十分だった。



 スナック・ハーヴェストへ向かうと、笑顔のママが迎えてくれた。女の子はひとりいたが、ミーちゃんの方だった。週末にはミーちゃんとケイちゃんが揃ってピンクレディーらしい。


「お兄さん、今夜は儲かったね」


 ママが問いかける。


「まずまずです。で、こちらのお客さんがいい店を紹介して欲しいとのことでお連れしました」


 僕の後ろに立っているオジさんを差すと、


「あらあら、そげんね。数あるお店の中からウチば指名してくれてありがたか。まあ、かけてくださいな」


 カウンターには他に誰もいない。


 オジさんは焼酎の湯割りを頼んだが、僕は平然とウイスキーのロックを頼む。奢られる時は酒を合わすのが基本だとは思っていたが、今日は素直に飲みたいものを頼んだ。


「このお兄さんの唄に惚れたよ」


 オジさんは何度となく言った。


「でしょう。中州の道端で唄わすにはもったいなか人ですよ」


 ママも繰り返していた。


 しばらくそんな会話のループが続き、うっかり眠りそうになったところへ、


「お客さんは、どげん歌を唄いなっと」


 ママがカラオケを勧めた。


 するとオジさんのカラオケ魂に火がついたのか、リクエスト曲は軍歌ばかりだった。『空の神兵』という落下傘部隊の曲が印象深かった。


 小一時間でオジさんはタクシーを頼み、僕もそのタイミングで席を立った。


 ママとふたりでタクシーを見送ると、


「いつもありがとねえ。また何かあったら呼びに行くけん。困り事じゃなくて儲け話でね」


 頭を下げると僕は歩き出す。ママはロマン通りの角を曲がるまで手を振ってくれていた。


 部屋に帰るとシャワーを浴びる前にベッドへ寝転んだ。時計のアラームを八時半にして、明日にはこのベッドに彼女が戻ってくると、それだけを夢見て目を閉じた。


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