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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
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97・(火・水)6月11日~12日

          97(火・水)6月11日~12日



 とりあえずのナインボールルールで、ミズキちゃんにはやり直し一回まで許可した。店のシステムは台の使用料千五百円と、一時間に一杯のドリンクノルマがあった。僕はバーボンロックを頼み、ミズキちゃんはZIMAを飲んでいた。


 初心者の彼女には左指でのブリッジの作り方からキューの持ち方まで指南しなければならなかったのだが――。


「ええー、なんでミズキの玉、跳ね回るとー」


「玉の下の方を突いてるんだよ。右手は軽く動かせばいいから、とりあえず白い手玉の中央に当ててみて」


「中央……真ん中……。あ、当たった」


 ビリヤードは一時期、地元で遊んでいた。ハンバーガーショップの先輩と初めて行って、三回目からはひとりで行くようになっていた。そこまで上手い訳ではないが、好きではある。下手の横好きというヤツだ。


「またナオミ君の勝ち。何でも出来るとやねえ」


「何でもは出来ないよ。そろそろ時間だから終わろうか」


「えー、まだミズキ勝ってないもん。もう一杯分だけ。奢るけん」


 この調子では朝が来ると思ったが、今の気分が紛れるならそれもいい。


「最初のガツン、てヤツ、ナオミ君がやって。ミズキ、力ないけん」


 やや右からのブレイクショットで8番が落ちた。生憎、1番は9番ボールがじゃまする遙か彼方だ。その代りコーナーギリギリにある。クッションを計算するのも面倒で、軽くマッセ気味に手玉を打った。壁面には『マッセ・ジャンプ禁止』の張り紙があったが、軽くキューを持ち上げる動作に店員の目は届かない。


 手玉は緩やかな弧を描いて1番を落とした、が、同時に手玉も落ちてしまった。失敗だ。


「えー今の何? グーンって曲がったよ」


 ミズキちゃんは勝つまで帰してくれない雰囲気だ。この際、接待ビリヤードにしようと、僕はミスしながらも彼女が落としやすいように手玉の位置を調整した。その甲斐あり、


「やった! ミズキ一勝!」


 どうやら満足した顔でエレベーターへ向かった。しかし彼女は、


「ナオミ君さあ、友達記念でミズキのとこ遊びに来ん?」


 僕はエレベーターホールだというのにくわえ煙草で、


「今ね、彼女がちょっと大変なことになってるんだ」


「彼女って……日向さん?」


「うん。だから今日はこれで帰るよ。プールバーならまたつき合うから」


「友達にはなったよね?」


「うん、なった」


「じゃあミズキも帰る。次は日向さんとも友達になれるかな」


 表へ出ると思った以上の人波で、群衆に引き裂かれるようにしてミズキちゃんと別れた。もちろん那由多への申し訳なさもあった。



 静かな部屋で目を覚まし、時計を見ると十時だった。部屋中を探し歩いたが彼女はいない。夢ではなかった。


 夜半の雨も上がり、午後の陽射しが眩しい。梅雨入りはとっくにしているらしいが晴天続きだ。


 フルーツ盛り合わせを持っていく訳にもいかないなと、川端の八百屋を覗くと、初物のビワがあった。


 ――枇杷の葉が照り返す秋の暮れ、と那由多の『時刻表』を思い出しつつ、値段を見ると驚いた。長崎では庭先からのいただき物で定番化しているビワがなんとも高級フルーツだった。財布を見て、それでも彼女の喜ぶ顔を見たくて一パック買って病院へ向かった。


 受付で名前を書き、202号の相部屋へいると聞いて階段を上がった。


 相部屋にはもうひとり名前があった。僕は窓際の彼女に向かってそっと近づく。


「どうだ」


 寝姿のままカーテンを見つめている彼女に声をかけると、こちらを向いた目は輝いていた。その輝きは僕の胸を小さく刺す。


「大丈夫ですよ。寝てる間に終わりました」


「ビワって食べるか?」


「ええ。意外と好きです。種の大きさに辟易しますが」


「まあよかった。初物だ。ウェットティッシュもあるから」


「おお。で、西ってどっちですかね」


「えっと……それ今訊きたいか?」


「だって初物を食べる時は西を向いて笑うんでしょ。寿命が七十五日伸びるそうです」


「それだったら東じゃないか」


「どっちでもいいです。笑って食べられるように皮剥いてください」


 皮を剥いたオレンジ色の果肉を差し出すと、彼女は溢れる果汁を啜りながら食べていた。


「美味しいです。長崎の味がします」


「茂木ビワだからな。世界一のビワだ」


「こないだまで長崎だったのに人生って不思議ですね」


 僕は様々な思いが駆け巡る中、その答えに迷った。


「そうだな。そういや事務所で甲斐田さんに会ってさ、悪いとは思ったんだけど入院中だって言っちゃったんだ」


「いいですよ。報告義務ですし。ていうか午前中に自分で電話しました」


「起きていいのかよ」


「ちゃんと看護婦さんに言いました。重病人じゃないんですから。で、明日丸一日の入院で帰れるそうです。明後日には退院ですよ」


「そうか……明日も来るけど、いるものないか?」


「そうですね。ノートとペン、持って来てくれますか」


「分かった」


 それから会話は途切れ、僕らは静かにベッドの上で指を絡めていた。



 帰り道、事務所に寄った。事後報告になったが菅原さんに伝えない訳にはいかない。


「どういった容態なんです? 大丈夫なんですか?」


 見るからに腹立たしそうな菅原さんというのを初めて見た気がする。


「突発性のものなので、あと一日安静にすれば退院ということでした」


「何回もあると思いたくはないですが、こういうことはすぐに事務所へ報告してください。レコーディングスケジュールにも響いてきますから」


「僕も慌てていたもので……すみません」


 素直に謝るフリだけしておいた。


 専務室を出ると小川さんと甲斐田さんが何やら打ち合わせをしていた。


「おうナオミン。ナユたんは大丈夫か」


「ご心配おかけしました。数日で現場に戻れます」


「そうか」


 色々と察してくれているのか、会話はそれで終わった。


 外に出るといつの間に雲が広がっていて、雨の匂いがした。いよいよ梅雨本番かと、那由多の演奏場所をどうにかしたいところでもあった。


 川端で買い物をすませていると、どう考えてもグラタンの材料だと気づいた。普通でいいと言った彼女に、僕は普通のグラタンを作りたかった。


 夜を待ち、予想通りの雨の中、真っ直ぐにがんにゃの横へ向かうと準備を始める。舗道の水跳ねに備えてケースを手前へ引き寄せた。以前なら雨、というだけで気分は萎えてしまっていたが、この場所は僕に勇気をくれる。すぐそこにファンがいる、というのは大きな支えであり、身も引き締まる。


 尾崎の『虹』から始まり雨の日ローテーションで一時間を繋ぐと、小銭が入り始める。


「お兄ちゃん、またおったか」


 やってきたのはがんにゃに通うきっかけを作ってくれた拓郎好きの堀内さんだ。あれから拓郎を少しずつ勉強していると言うと、


「じゃあ『流星』やらんかね」


「はい!」


 覚えた挙句、ようやくのお披露目となった『流星』は、キーの高低差に振り回されたがDのハープがはまった。


「よう覚えたじゃなかか。ほい、チップ」


 千円札が入る。そしてがんにゃのシャッターが開く。僕の立てた譜面にも明かりが灯ったようだ。


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