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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
172/272

95・(日・月)6月9日~10日

          95(日・月)6月9日~10日



 シンとした廊下に、病院独特の匂いがする。床のリノリウムが蛍光灯をにぶく照り返している。

小一時間経ったところで、目の前の扉が開き、


「お連れ様、どうぞ中に」


 看護婦が右手で奥を指す。僕は荷物もそのままにフラフラと立ち上がる。


 那由多はまだストレッチャーの上で、しかし少し落ち着いた感じで横たわっている。


「えっとね、あなた旦那さん?」


 ぶ厚いレンズの眼鏡越しに睨まれた気分だった。


「いえ……恋人です」


「妊娠されとりました。ただ、場所が子宮じゃなくて外側やった。いわゆる子宮外妊娠ですたいね。分かります?」


「それは……子供は助からないということでしょうか」


 無知なりに覚悟を決めて訊ねると、


「だけん、子宮に出来た赤ん坊じゃなかとですよ。手術して取り除くしかなか訳です」


 バカにしたように言われた。確かに僕はバカだ。


「手術しかないんですね……」


 那由多は静かにそれを聞いている。天井を見上げた瞳も動かさず。


「今は痛み止めば打っとりますけん大丈夫ですけど。もう何日て持ちませんからね。なるべく早く手術するようにしてください。それから性行為に避妊具はつけてますか」


「いえ……膣外射精で……」


「結婚してないなら今後気をつけることですたいね。今日は帰ってもいいですが。保険証はお持ちで?」


 そこへ那由多が、


「ナオミさん、私のリュックから青いポーチ出してください。そこに入ってます」


 僕は中座して荷物を探った。譜面の隣に青いポーチがあった。


 那由多にはリュックだけ背負ってもらい、病院内の薬局で痛み止めを出してもらい、会計で保険証を出した。八千二百円だった。


 お互い無口にタクシーを待ち、ギターと荷物を詰め込むと、大黒通りを須崎町の方まで、と運転手に告げた。


 マンションへ帰るとソファーに座り、どちらからともなく抱き合った。傷ついたり傷付けたりしない、柔らかな抱擁だった。


「手術って、いくらするんですかね……」


 そうこぼす彼女に、


「大丈夫だ。俺に任せとけ」


 根拠もなく言った。いや、根拠ならあった。


「明日にでも予約入れて、手術しよう」


 窓の外は晴れ晴れと青空が広がり、無性に寂しくなった。



 翌日、定例には僕ひとり出かけて、帰ってから昨日の病院へ手術の予約を入れた。明日の午後に来てくれと言われた。治療費の方を訊ねたら、おおよそ二十万円だと言われた。術後三泊の入院が必要らしい。


「ついてくからさ、心配するなよ」


「ナオミさん、あのお金使うつもりでしょう……」


「ああ、やっと使えて清々するよ。とにかく今日はゆっくりしてろ。俺はNOA入ってるから一緒にいれないけど」


「仲井間さんのCD聴いときます」


「ああ、それがいい。次はグラタンにするからな」


 そう言うと急に悲しそうな顔を見せ、


「普通でいいんです」


 それだけ呟くと僕をソファーへ呼んだ。かしげた首を僕の肩に乗せ、目を閉じていた。


 夕方になるとステージの準備を軽くすませ、七時半にNOAへ向かった。最近はジーンズに白いシャツが定番になってきたが、そろそろ服を買おうと思う。


「杉内様、お世話になります」


 勝沼さんへ挨拶をして控室へ向かうと、フルートの陣内さんが店仕舞いしていた。


「あらご機嫌いかが。頑張ってね」


 そして鼻息も荒く去ってゆくのだった。


 そこへバーボンロックを持ってきたミズキちゃんが、


「おはようナオミ君! あのね、最初のステージで『マイウェイ』ば聴きたかってお客さんのおるとけど」


「いいよ。なんなら全部洋楽にしてみよう」


 ということでフランク・シナトラ始めサイモン&ガーファンクル、それにビートルズで一部をセットした。


「今日暇やけんね、ミズキずっとナオミ番とよ」


「そりゃ嬉しい」


 僕はギターを出してチューニングに勤しむ。


「今さあ、AQUAでも唄いよるとやろう? あそこってヤクザ多からしかよ。気をつけてね」


「そっか。まあ、そん時はそん時だな」


 と言っているうちに、ワンステージ目だ。


「じゃね、行ってくる」


「行ってらっしゃーい」


 ミズキちゃんは可愛い。那由多がいなければ彼女にしたいくらいだ。が、那由多を超える存在を僕は知らない。


 ちょっと焦らしを入れ、リクエストを三曲目に持ってきた。そして最後に『Let it be』で終わった。この店の拍手はいつも心地よい。


「御疲れビールー」


「ありがと」


 僕はビールを受け取り、ひと息に半分飲む。


「でさあナオミ君。最近、尾崎少なくない?」


「ああ、お客さんに合わせてるからね」


「じゃあさ、久しぶりにアイラ~ビュ~ってヤツ唄って。ミズキのために」


「いいよ。そしたら最後にしよう。一曲目も尾崎がいいかなあ――」


 一曲目は『ダンスホール』二曲目は『愛しのエリー』三曲目が『レイニーブルー』ラストが『I LOVE YOU』という強烈な布陣で挑むことにした。前半とはまるきり方向性が逆だ。


 しかし本番一曲目では拍手もまばらだったが、二曲目三曲目と盛況だった。


「では最後に、『I LOVE YOU』を」


 少しだけ仲井間さんを意識してみる。甘い声、甘い声。


「やあん、よかったあ」


 お代わりのビールを持ってきたミズキちゃんにブイサインを送ると、ドアがノックされた。そして、


「杉内様。今より見えられるお客様がいらっしゃるのですが、神崎様と申しまして――」


「ああ、あの演歌の好きなお客様ですね」


「左様で。もし出来ましたらもうワンステージお願い出来ますでしょうか」


 少しでも金の入用な時に、願ったりかなったりだ。


「いいですよ、OKです」


「助かります。では上乗せ分も入れまして先にギャランティの方お渡ししておきます」


 煙草に火をつけると、


「ナオミ君はオジさんに好かれるよねえ。羨ましか」


「まあ、同性に好かれる方が幸せって言うしね」


 と言っているうちに時間だ。


「ではアンコール行ってきます」


「行ってらっしゃーい」


 マイクの前へ座るとステージ前方でニコニコしているオヤジがいる。それが神崎さんだ。


「大将! バチッと決めろよ!」


 高級クラブにそぐわないかけ声だが、個人的には好きだ。


「では今宵のアンコールステージとなります。杉内直己、心を込めて唄います」


 一曲目を那由多仕込みの『石狩挽歌』を唄い始めると、


「いいぞ!」


 と合間合間に合いの手が入った。二曲目は『舟唄』三曲目は『想い出まくら』と続け、店は演歌ムードに満ちている。さっきまでのレパートリーを聴いているお客さんが二度見していた。


「では最後に、本邦初公開の歌を『越冬つばめ』」


 神崎さんはサビを一緒に唄っていたが、演奏が終わるとステージへ駆け寄り、五千円札を握らせた。笑顔とともに控室へと戻る。


「おっつかれー! メッチャ演歌やん!」


「まあね。プロなんでこういうことも出来なきゃ」


「ホント、何でも唄えるんやねえ」


「これでも中古CD屋さんに行って勉強もしてるんだよ」


「そうよね。勉強は必要やんね」


 最近はミズキちゃんとの休憩タイムが癒しになっている。が、癒されてばかりでは仕方がなく、十時のステージを最後にNOAを出た。


 表へ出ると「これで一万二千五百円か」と呟き、那由多のことを思えば早く帰ろうと思った。


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