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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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17・(金・土)5月25日~26日

          17(金・土)5月25日~26日



『開いとるよ、上がってきて』


 麗美の声にエレベーターで三階に上がると、軽くノックして一号室のドアを開けた。麗美はキッチンに立って菜箸を握っている。


「ジャストやね。もうすぐこれ出来るけん、待っとって」


「これ……って」


「ああ。うまかっちゃん。それともこういうの食べん人?」


 僕は鍋でラーメンをほぐす彼女の後ろを通り、リビングへ入った。


「出来たよー。あたしの一存で卵とじたけんね」


 丼をふたつ抱えた彼女がテーブルへやってくる。何よりの最優先事項がインスタントラーメンというのが寂しかったが、


「いただきます……」


 夜中に食べるラーメンは格別だ。最近、普通のモノをあまり食べていないせいもある。屋上遊園地のたこ焼きと大判焼きでは身体が持たない。


「どう? 美味しか?」


「うん」


 僕は熱々の麺を啜り上げながらうなずく。白濁した豚骨スープに卵が絡み、美味さは二倍だ。麺のコシも充分に残っている。それを伝えると、


「うまかっちゃんはゆで時間二分半でよかけんね。これ博多の友達の話」


 丼一杯のラーメンをスープまで飲み干すと、人心地ついた気になる。麗美は最後の麺を啜りあげ、スープは残した。


「夜にあんまり食べるとね、身になるけん」


 先日、いただき物の豚まんを十個平らげた人物の言葉とも思えなかったが、そこは流した。この間のことは、もう口にしたくなかった。


「今日はどうやったと?」


 流しから戻った彼女が訊ねてくるので、


「まあまあやった。明日の方がいいかもね」


 と、見栄ではなく、どちらかといえば心配をかけたくなくて言った。


「コーヒー飲む? ビールもあるよ」


 ここにきてまた大事な記憶を失くしたくはないので、コーヒーを頼んだ。何度もキッチンへ立つ彼女は甲斐甲斐しい幼な妻のようだ。


 お湯が沸く間、


「最近はどげんとば唄っとると? やっぱ尾崎ばっかり?」


 そう訊かれたので、


「兄貴のレコードから落とした長渕とか聴いて練習しとる」


「ふうん。ナガブチって、よう分からん。『順子』とか?」


「そういうともあるけど、そういう歌謡曲っぽくないやつ」


「今度、聴かせてね」


 また再び思案橋の交差点に立つ彼女が見られるかと思えば、照れ臭くもあり、嬉しくもあった。それにしてもいったいこの数日、何にこだわっていたのかバカバカしくなる。僕はバカなのだ。


 コーヒーが入ると午前一時半だった。彼女はポニーテールをほどいて肩に髪をかけている。それだけで少し大人びて見えた。カップを持つ爪の先は、濃いピンク色に塗られている。


「また家探しせんといけんねえ」


 マルエイアパートの話をすると、彼女が大きくため息をついて言った。


「いいよ。サウナとかビジネスホテルとか、色々行けるとこあるし」


「お金は?」


 女性というのはすぐにそこを気にするものなのか、麗美も例に漏れずそこを心配した。


「ギリギリやけどなんとかなっとる。明日は期待してよかし」


 実情はどんどん赤字がかさんでいる。


「でもさ、サウナとかあたしはよう知らんけど、入れんかった時とか大変じゃ? これから梅雨になったらあそこで唄えんよ。屋根もないし」


 言われてみればそうだ。が、僕は心配をかけるのが嫌で強がった。


「その時は思案橋の奥の方にも入ってみるよ。ビルの軒先とかあるみたいやし」


「そう? ならいいけど。もし何かあったら、また片桐さんとこに行ってもよかとよ。あたし、話しとくけん」


「麗美……それは助かるとけど、何か根本的に変えんといけんところがあって」


「何?」


「……自分の部屋持たんと、何も出来んと思うけんさ」


「……」


 冷めたコーヒーよりも苦い沈黙があった。今の自分にそれが必要なことは誰より分かっている。けれど、その方法が見つからない。


 開いてしまった間を嫌ったか、麗美がその話を片付ける。


「そこはあたしも考えとくけん。しばらく家におったら?」


「うん……」


 どうやら話はこれで終わったようで、麗美はバスタブに湯を張りに行った。


「シャワーばっかりじゃ疲れは取れんけんね」


 僕はテレビをつけて、どうでもいい深夜チャンネルを見るともなしに見ていた。彼女の入浴中にウォークマンを充電させてもらい、譜面の長渕剛を鼻歌で確かめていた。明日は長渕も二、三曲唄ってみよう。


「お風呂、いいよ」


 髪にタオルを巻いた麗美がやはりキャミソール姿で現れると、僕は譜面をそのままにバスルームへと向かった。


 バスタブでゆっくりと湯に浸かると、頭の芯がほぐれてゆくのが分かった。僕の一日の半分は、脳みそをかき回すためにあるようだ。お湯を入れて二分半でほぐれてゆく脳みそを思い浮かべ、歯ブラシを動かしながら彼女が浸かった同じ湯に身を任せた。


 バスルームを出ると、ソファーで譜面を読んでいる彼女の姿があった。


「あ、ごめん。読んだらいけんかった?」


 そう言いながら彼女は湯上りのビールを手に振り向く。


「別にいいよ。あんまり読みやすい字じゃないけど」


「そう? 小さか字やけど味があると思うよ」


 言いつつ、彼女はページをめくる。そして、


「明日バイトやけんさ。十時過ぎに寄るよ」


 明日は思案橋の女神が降臨すると思った僕は、下手な演奏は出来ないと思った。その何気ないプレッシャーはひとつの綻びを生み出すのだが。


「明日、何時に出る? 母親が来ると思うけん、午前中までならおってよかよ」


「じゃあ、それくらいで」


 僕は髪を拭いたタオルを首にかけ、ソファーに座る。白いキャミソールはとても薄く、彼女の素肌が透き通って見えた。



 目覚めると隣に温もりがある。それは不自然でいて、とても自然な気持ちにもさせた。


 人は誰かの温もりがなければ生きてゆけないのかも知れない。それが間違った温もりであったとして、それでも人は温もりに頼って生きる。ひとりで生きてゆける人間などいないのだ。


 早朝から尾崎豊のようなことを考えつつ、やっぱり僕は彼女の手を握った。するとその小さな手はすぐに握り返してくる。


「何時……」


「七時半」


「そう……」


 動き始める世の中を外界に置いて、飲み屋街の一角であるこの部屋にまだ朝は訪れない。その眠りが明けるまで、この街は夜のままだった。


 寝返りを打った麗美が、僕の横顔を見つめる。


「ナオミ君は優しいよね」


 それは誰かと比べられたのかと考えつつ、


「優しくないよ。弱いだけやから」


 癖にもなっている卑屈な言葉が、口を突いて出た。


「そういうのとは違うよ。だってあたしのためにブルハ覚えてくれたもん」


「それくらい――」


 けれど僕の言葉を遮り、


「誰にだって出来ることじゃないよ」


 麗美が軽く口づけた。


「コーヒー淹れるね」


 そう言って起き上がると、リビングへ向かった。


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