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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
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91・(金)6月7日

          91(金)6月7日



 昼過ぎになると那由多が荷物を抱えてドアへ向かった。


「明日さあ、九時くらいに電話鳴らしてくれよ。どうもAQUAの営業って飲まされるか長引くかなりそうだから」


「知りませんよ。私だって前日の思案橋で飲み潰れるかも知れませんから。目覚ましに頼ってください」


 そう言うと彼女は出て行った。なんとなく途方に暮れた気分になり、お留守番の子供のようだった。


 それでもお留守番中に出来ることはある。吉田拓郎ベストのコンプリート計画だ。コンプリートは出来ないまでも三曲覚えよう。


 いつか雨の夜に客から言われた『祭りのあと』は覚えやすそうなので、候補に入れた。『結婚しようよ』は王道過ぎて悩んだが、結局好きな人は多いということで覚えることにした。というか歌詞があればほとんど唄える。


 次を悩んだが、これもどこかでリクエストされて唄えなかった曲ということで『流星』を入れた。ファン人気は高いらしい。


 二時間みっちりとCDを聴き、YAMAHAを出してコードを追った。どれも難しいコードはなく、残りの決め手はキーのみだ。こればかりは唄わないと分からない。リハーサルを早めにやっつけて練習時間に当ててみよう。


 那由多のいない部屋は、見離された水槽のようだった。淀んでゆく水の中で僕は水面を探して上昇する。しかしいつまで経っても水面は見えない。そんな息苦しさの中、救いを求めて昼間からビールを飲む。長らく味わっていなかった時間だ。


 ソファーに座ってビールを減らしながら、ギターを弾いては夕暮れを待った。早く夜の街へ飛び込みたかった。



 六時十分のCLUB AQUAへ出向くと、国木田さんが出迎えてくれた。


「早いですね」


「ちょっと練習したい歌がありまして」


 VIPルームのドアを開けてもらうと、すぐにギターと譜面、それに譜面台を出した。


「音のチェックだけやりますね」


 そう言うと国木田さんはカウンターの中へ入って行き、


「前回と同じにしましたが」


 かしこまってこちらを見た。僕は無言でうなずき、『西高東低』のイントロを弾いてみる。


「ギターのエコーをですね、気持ち絞ってみてください」


 次はボーカルを、と思っていると女の子たちが、恐らく更衣室なのだろうが、わんさか出て来た。


「おはようございまーす」


「今日はなんば唄うと?」


 と、前回の演奏で受け入れてもらえたのか声をかけてくれた。そしてそれぞれにロングドレスの裾を引きずりながらソファーへと座ってこちらを見ている。


 こうなると練習どころではなくなり、


「尾崎豊好きな人―」


「はーい」


 五人の手が上がった。


「じゃあ『I LOVE YOU』という、唄うのが恥ずかしい曲を」


 僕が言うと、「やった!」とはしゃいでいる。


「サザンはだめですか?」


 というので、スナック・ハーヴェストでも唄った『愛しのエリー』を唄った。余りにも有名過ぎて唄うのが恥ずかしい曲のオンパレードだ。


「じゃああとはこっちの練習に移ります。今夜も皆さん頑張って稼いでください」


「はーい」


 いい返事が返ってきた。調教師の気分だ。


 しばし吉田拓郎を唄ってみたが問題はない。


「国木田さん、OKです。本番よろしくお願いします」


「はい、こちらこそ」


 六時四十五分に控室へ向かうと、樹里ちゃんがやって来た。


「ビールでよかとですかあ?」


「ああ、最初はバーボンのロックって決めてるんです」


「そげん強かお酒飲んでよう唄えますね」


「鍛えてますから」


 すると彼女はふふっと笑い、控室を出た。


 譜面を直前の気分で入れ替えていると、樹里ちゃんがグラスを持って来てくれた。


「ありがとうございます。で、樹里ちゃんっていくつ?」


「えー二十歳です」


 そんな感じはしていた。


「今年二十一になる?」


「はい」


「じゃあ俺と一緒だ」


「えー、そうなんですかー。もっと上かと思っとったあ。じゃ、またあとで来るんで頑張ってください」


 樹里ちゃんが戻ると、AQUAのドアが開き、お客さんが入り始めた。



「では本日最後の曲です。『酒と泪と男と女』」


 後半では満席のお客さんが口々に唄い、大盛況の中でスリーステージを終えた。せっかく新しい演歌を仕入れたのに荒くれ者の木下さんが来なかったことが残念だった。


「お疲れ様です。ビールでよろしいですね?」


「ええ、いただきます」


「それとこちら、本日のギャラです」


「ありがとうございます。今日の演奏、どこか問題ありませんでした?」


「いえ、まったくそのようなことは。今後もこの感じでお願い出来れば幸いです」


 その後ひとりの控室でビールを飲んでいると、樹里ちゃんが入って来た。


「仕事は? いいの?」


「店長が杉内さんについとくようにって」


 嬉しそうに笑う。どんな子でも笑うと可愛らしいものだ。おてもやんのような頬もご愛嬌だ。


「でね、次に来た時、レベッカの『フレンズ』ば唄うて欲しかって子がおるとけど」


「そっか。じゃあ覚えて来るよ。男のだみ声でよかったら」


「えー、杉内さんの声ってそんなじゃなかですよ。皆、徳永英明とかピッタリって言いよるもん」


 世間の評価はそうなのかと思いながら、ここで勘違いしてはいけないと自分を戒める。


「そういえば、木下さんて来なかったね」


「たぶん明日来るよ。私、あの人好かん」


「それでもお客さんはお客さんだからね」


「杉内さん、こないだ一緒に飲みよったでしょ? 皆で『あの人すごかね』って話よったと。木下さんが笑いよる顔とか誰も見とらんもん」


「俺はただの酔っ払いだから。でさ、せっかくだから俺の名前、杉内じゃなくてナオミって下の名前で呼んで欲しいんやけど。同い年やし」


「えー、ナオミっていうと? じゃあナオミ君たいね」


「うんうん。その方向で」


 そんな平和な会話を交わして本日の営業は終了した。那由多の分のノルマをもうひと稼ぎしたかったが、ライブ前に深追いは禁物とがんにゃで一杯ひっかけて帰ることにした。


「じゃあ、すぐそこで唄いよらすとたい」


 てる子さんは顔を出すなりジョッキを握った。カウンターにはナオさんといつもの紳士が陣取っていて、その光景に安心した。お姉ちゃんたちの中に揉まれるのは向いてない。


 そこへ、ナオさんから驚愕の真実を聞かされる。


「AQUAやろ? ウチ、ちょっと前まで勤めとったよ。一年ならんくらい前」


「そうなんですか? なんか想像しにくいっていうか……」


「化粧してきれいきれいにしとけば分からんとって。暗か店やし」


「樹里ちゃんて女の子は知ってます?」


「んー? ウチのおる時にはおらんかったと思う」


「そっか……」


「でさあ、店長が仕事せんとさ。ナオミ君、大変やろ?」


 彼女は、岡崎さんが喝を入れたあとの国木田さんを知らない。


「よくしてもらってますよ。それよりAQUAとNOAの色分けが難しくて」


「NOAはホントの高級クラブやけんね。AQUAと違うもん。そいにしても、ようあげんとこで唄えるごとなったね。成り上がりハンパじゃなかよ」


「そこは自分でも思います。だからいつも思うんです、天狗になったらおしまいだって」


 ナオさんはウーロン杯を飲みつつ、


「ナオミ君は大丈夫さ。ストリートでも丁寧やもん」


「それは怖がりなだけです」


 時計を見ると十一時半だ。那由多のいない部屋に帰るのかと思ったら、まだまだ飲んでいたかった。


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