89・(金)5月24日
89(金)5月24日
ビアグラスを空け、のんびり煙草を吹かしていると八時になるのは早かった。
「杉内様、次お願いしてよろしいですか」
「ええ、僕も出るところですから」
ステージへ向かうと六テーブル中四テーブルが埋まっている。前列の客が珍しいものでも見るように僕を見上げる。
僕はギターを弾き下ろし、カウンターへ手を上げる。BGMが落ちる。
「えー、高い所から失礼いたします。先ほど思わぬリクエストをいただきましたので、徳永英明の『最後の言い訳』を」
今度こそ聞こえよがしに「きゃー」と言う声が響いた。
間奏で女性陣の熱い拍手を受けると、前列では「こん人有名か人?」との談義が持ち上がっていた。
「ありがとうございます。次は――」
言いかけたところに、
「なんばちんたらオカマのごたる歌ば唄いよるか! びしっと男らしか歌ば唄え!」
壁際のひとり客が叫んだ。これがAQUAの洗礼かと思いつつ、僕は譜面をめくる。国木田さんはどうしようかとオロオロしている。
「ただいま厳しいご指導を承りましたので、リクエストにお応えしたいと思います。こういった高級クラブでこれはいかがなものかと封印しておりましたが、本日は唄わせていただこうと思います。鳥羽一郎」
『兄弟船』を目いっぱいのキーで唄い終えると、壁際からは拍手よりも呆気にとられた顔が伺えた。路上唄いを舐めてかかるとこうなる。
「えー、先輩のリクエストで一曲唄いましたが。奥にはまださらなる諸先輩が待っております。そういった歌をひとつ」
そして選んだ曲は『The Sound Of Silence』だった。奥の席ではうんうんとうなずいている客の顔が見える。壁際の客は国木田さんにたしなめられたのか静かにしている。
「ありがとうございます。それでは第二部最後の唄です。『昴』という歌を」
演奏が終わると奥からの拍手が大きく、続いて女の子たちも拍手をくれた。
控室に戻ると、ビールより先に国木田さんが現れた。
「もうし訳ございません。少々粗野なお客様でして」
「前回の日向の時もお見えに?」
「そうでしたね。あれこれと注文をつけられて」
「あのくらいでしたら僕は問題ないですよ」
「そうですか。以後気を付けていただきますので。では失礼します」
入れ替わりでビール役の女の子が入って来た。
「メチャよかったです! 私、樹里と言います」
名刺をくれた。
「ところで女の子の中に尾崎豊のファンとかいる?」
「えー、どうでしょう。亜矢ちゃんがそうかも」
「ま、いいですよ。しばらくAQUAさんの担当になりましたんで、少しずつ皆さんのこと覚えていければ」
「はい! よろしくお願いします!」
樹里ちゃんは頭を下げ、部屋を出て行く。
ビールを飲みつつ、また煙草を吹かす。もう一曲ぐらい壁際の荒くれ者に唄ってやってもいいなと思い譜面をめくっていた。
九時からの最終ステージは尾崎スタートに決め、『ダンスホール』を持ってきた。小さな拍手をもらい、その反応を見て二曲目は那由多からもらった『秋桜』にした。さだまさしを意識したが、これは普通の拍手だった。
「えー、先ほどのリクエストにまだ応えきれておりません。少し賑やかですが、こんな歌を壁際の先輩に。
唄った歌は長渕の『とんぼ』だった。どうやら知っている歌のようで、ところどころ一緒に唄っている気配があった。
「それではまことに残念ですが、本日のラストナンバーとなります。先輩方にはご存知の方も多いと思われますが、不勉強な私の歌で唄わせていただきます。『マイウェイ』」
唄い終えるとさすが有名曲で、今日いちばんの拍手をもらいステージは終わった。
VIPルームへ戻りギターを拭いて仕舞っていると、国木田さんがやってきた。
「杉内様、本日の御出演料です。ありがとうございました」
「はい。色々と勉強になりました。これに懲りず、また使ってみてください」
「こちらの方こそ勉強不足でして。それで……」
国木田さんは言い出しにくそうに口ごもる。
「はい?」
「先ほどの大声を出されていた――木下様というお客様なんですが、杉内様に一杯奢りたいと申しておりまして。何でしたら断ってまいりましょうか」
「いいえ、とんでもない。行ってきますよ、一杯でも二杯でも」
敵の懐に飛び込まなければ見えないものもある。
「よろしいんですか?」
「ギターだけこちらに置いててもよければ」
「はい、責任を持ってお預かりします」
そういうと国木田さんは、
「樹里、杉内様を木下様のところへご案内差し上げて」
彼女はどこか楽しそうに駆け寄り、テーブルへ案内した。
「おう!とんぼの兄ちゃん! 今日はようやったな」
握手を求めて来たので手を差し出す。こういう人の握手はむやみに強い。
「まあ座れ」
「はい! 失礼します!」
横についているシルバーのドレスの女の子は、明らかな作り笑顔を見せていた。何も知らない新顔が客を逆上させないかきっと心配なのだ。
「そうか。ストリートミュージシャンばしよるとか」
木下さんは焼酎の水割りを飲んでいる。僕はもらったビールを飲んでいる。
「ええ、事務所の給料だけじゃやってけないんです」
「そうか。じゃあよかとこば紹介すっか。テキ屋ばってん、あっちこっち行って儲かるぞ」
「まあ、そこは音楽を続けたいんで。あ、煙草吸ってもよろしいですか」
「おう、吸え吸え。ばってんがくさ、なかなか難しか世界やろうが。樹里、こん兄ちゃんにもう一杯やれ」
隣りについていた樹里ちゃんが、ビアグラスを下げる。僕は煙草に火をつける。
「とにかくオイは兄ちゃんのファンになったけんな。中州でやろうが東京で唄おうがファンはファンたい。なんかあったら上川端の木下の名前ば出しとけ」
「頼もしいです」
僕はスイスイと入ってゆくビールを喉に流していた。
そこへ、ずっと黙っていた隣の子が、
「尾崎、唄えるんですね。あんな上手い人聴いたことなかですよ」
「まあ、最初が尾崎で音楽を始めたので」
木下さんがナッツをつまみながら、
「尾崎ちゅうたらシャブで上げられたろうもん。ろくなもんじゃなかぞ」
「その辺は真似しないようにしてます」
「まあ、兄ちゃんも気をつけろ。中州もあっちこっちに売人のおるけんな」
「はい。じゃあ僕はそろそろ行こうかと思います」
「もう行くとか」
「再来週にはまたご一緒出来ます」
「そうか。そいじゃな。樹里、送れ」
僕の隣にずっといた樹里ちゃんは、立ち上がると先頭に立ってVIPルームへ向かった。
「またいい歌聴かして下さいね」
リュックを担ぐ僕に、後ろから彼女が言う。僕は振り向いてうなずいた。
「では杉内様、本日は長々とお引き止めして申し訳ございません」
「いえ。楽しかったからいいんですよ。それじゃまた再来週に」
「はい、よろしくお願いいたします」
中央通を右に曲がって歩いてゆくと歌声が聴こえる。十時半、稼ぎ時だ。
「お姉ちゃん、民謡唄うてや」
その登場の仕方がよほど気に入らなかったのか、僕がご機嫌なのが許せないのか、
「両方です」
そう言ってギターを置いた。
「終わるのか」
「まさか。まだ二千円なんですよ。トイレ休憩してきます」
「缶ビール一本な」
思えば那由多のモーリスはほとんど触った記憶がない。なので荷物を下ろして触っていると、
「よっ! 吉幾三の『酒よ』」
歌本にあった気がして探したらあった。一番だけのつもりで唄っているとまた人が止まり、那由多は戻って来るなり困惑していた。
「空き時間を有効活用しただけだって」
「私のモーリスちゃんを……」
それから彼女は一時間唄って、千円の投げ銭を最後の上がりにした。




