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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
16/272

16・(金)5月25日

16(金)5月25日


「ギターとか持っとるから人違いかと思った」


 行きつけのレスポワールという店で理恵はカフェラテを頼み、僕はウイスキーティーを頼んだ。スプーンの上の角砂糖にウイスキーを垂らし、ライターを近付けると青い炎が上がった。


 しばらくその様子を眺めて、僕は紅茶を混ぜる。


「今、ストリートミュージシャンやりよると」


 隠し立てしても仕方がないので、ストレートに告げた。


「……それで家に帰らんでどこに寝とると」


「サウナとか、カプセルホテル」


 とごまかして煙草に火をつけると、


「ウソ……女の子のとこやろ」


 うつむいて泣き出してしまった。


「ウソじゃないって。昨日も一昨日もホテルに泊まったけん」


 慌ててポケットから領収書を出してみせると涙は止まったが、


「……お金は、どうしとると」


「だけん、ストリートで」


「どういうこと?」


 本気で悩む彼女に「路上演奏ではチップが入るのだ」と説明しても、


「それって……パチンコみたいなもんやろ」


 そう言い切られてしまった。思わず、


「パチンコとは違うけん!」


 大声が出てしまい、気まずく二本目の煙草に火をつけた。


「とにかく、そういう感じで生活しよるけん。それから――」


 僕は火のついた煙草を灰皿に置き、


「麗美のことは調べん方がいいってウチの親にも伝えとってくれんね。ヤクザの会長の娘やけんね。これ以上嗅ぎ回られたらタダじゃすまんけんさ」


 脅すように言うと本気で怯えていた。


「じゃあ俺、ストリートの準備のあるけん」


 千円札を一枚置いて立ち上がった僕を、彼女は引き止められない。きっと、今日が彼女との最後の日だ。そう覚悟した。


 店を出るとまだまだ六時で、あと二時間をどこかで潰さなければならない。なので、また屋上遊園地に行くことにした。ギターを抱えて歩くアーケードにも少し慣れた。


 稲佐山の向こうに傾いた日が空を白く照らしている。僕はメリーゴーランドを背中に、大判焼きとカップコーヒーを手にして飽きることなくそれを見つめる。何が面白い訳ではない。感情に寄せて答えるなら、物悲しい、というのがしっくりくる。そしてその物悲しい太陽が明日になればまた新しく生まれ変わって大空を支配するのだと思うと、それだけで命を繋げそうだった。微かな希望に思えるのだった。


 甘い大判焼きをコーヒーで流し込み、煙草に火をつける。メリーゴーランドのムダに明るいメロディーがどこか郷愁を誘う。家族皆でここへ来て、僕自身、あのメリーゴーランドに乗ったこともある。それはいつだったろう。幼稚園か、小学生か、悔しいがとても遠くのことに思えた。


 デパートの閉店に合わせて一階へ下りると、エレベーターガールは僕のような人間にも恭しく頭を下げた。


 思案橋へ向かう途中にウイスキーの小瓶と水を買うと、横断歩道の向こうに赤いキャップのポニーテールが見えた。麗美だ。


 走り出そうとしたが信号は赤だ。ずっと避けていた彼女に本当は会いたかったのだと、ようやく気付いた。気ばかり急く中で信号が変わったが、彼女の姿はもうどこにも見えなかった。


 ストリートの前に心を乱すまいと思えば思うほど、彼女の顔が浮かんだ。ギターの弦を弾いても、ハーモニカを口に当てても、考えるのは彼女のことばかりだった。


 十時になると、


「頑張っとるね。これ差し入れ」


 立ち止まってコーヒーを置いたのはサザンクラウンのマスターだった。隣にはギターケースを抱えた橋詰さんがいた。


「なんね、全然儲かっとらんたい」


 そう言ってケースへ小銭を撒いたのは橋詰さんだ。十円玉と一円玉ばかりだった。


「ありがとうございます……」


 とりあえず頭を下げると、


「今日はね、彼のライブでちょっと出とったとよ。よかったらあとでお店に寄らんね。来月の話もあるし」


 マスターはあご髭をなでながら笑った。


「じゃな、頑張れよ少年!」


「じゃあね、またあとで」


 二人が去ると、また静かな路上に戻った。


 知り合いの顔を見るとホッとするのか、声にはいくらか張りが出て、通行人も足を止め始めた。それでも耳を傾けてくれるまでには至らず、ウイスキーのボトルがなくなると十二時だった。今夜の上がりは金曜日だというのに千五十八円だった


 財布の中には六千円。サザンに顔を出せば二千円はなくなる。


(一杯だけ飲みに行こう。そのあとはその時に考えればいいさ)


 明日の土曜に望みを託して、サザンクラウンへ向かった。


「いらっしゃい。どうやったね」


「儲かったか」


 と迎えるマスターよりも橋詰さんよりも先に、赤いキャップを探した。カウンターにはいない。そして角のテーブル席を見ると、


「ナオミ君……? お疲れ……」


 白いクッションを抱いた彼女がビアグラスを置いて座っていた。


 僕は、ああ、だか、はあ、だか呟き、カウンターの右端へ座る。


「マスター、一杯だけで帰りますんでビールください」


「はいはい。一杯でも二杯でも」


 ビールを待つ間に煙草を出すと、



「杉内君もレイちゃんに嫌われた口か? そげん遠くにおらんと、男同士、仲よう話そうや」


 何が嬉しいのか橋詰さんが恵比須顔で手招きする。


 と、そこへ――。


「こないだ……ごめん」


 ビアグラスを手にした麗美がやって来た。


 それを見て橋詰さんは、


「けっ、男の友情もへったくれやな!」


 とウイスキーを煽っていた。


 僕は手持ち無沙汰なまま煙草の箱をカウンターテーブルで転がし、


「俺も……悪かった。言い過ぎたと思う……」


 すると彼女は小さく洟を啜り、


「隣、座ってよか?」


 と訊ねてきた。断る言葉もなく、僕はうなずいた。


「はい、ナオミ君。ビールお待たせ」


 やってきたビアグラスをどちらからともなく合わせ、小さな音を立てる。


 僕はビールを飲みながら、隣をそっと覗き見たが、そこに先日の暗い影は見えなかった。そんな中、


「今日はどこに泊まると……」


 その質問自体を隠すような小声で、麗美がボソリと呟いた。


「まだ決めてない」


 僕は正直に話す。ただ、間違えてももう、あのマルエイアパートには行かないだろう。


「家……ナオミ君がよかったらやけど、使うてよかよ。あたし、リビングで寝るし」


 その言葉が胸に刺さる。あの日、あれだけ拒絶の言葉を向けられた相手に、彼女はどうしてそれが言えるのだろう。実家の親すら言わない言葉だった。


「行って……いい?」


 いつもなら浮かぶ理恵の顔がそこにはもう浮かばなかった。その時ようやく、僕はあの人から離れたのだと安心した。安心したのだ。隠し事ばかりが多くなる日々の中、理恵だけにはウソをつきたくなかった。しかしその真実を受け止める力が彼女にはない。仕方がないのだ。女子高、女子大出身の生粋のお嬢様なのだから。


 バージニアを深く吸い込んだ麗美が、ゆっくりと息を吐き出す。その最後に、


「私が出たら、五分後に来て」


 早口で言うと、


「マスターごちそう様」


 席を立って足早に店を出て行った。


「おお? どうしたとね。そっちもフラれたか。よしよし、今夜は飲もう」


 賑やかな橋詰さんの声を聞き流し、僕はグラスのビールに目盛りをつける。指一本で一分。それが五本分なくなれば時間だ。おそらくそれは橋詰さんのような人に勘繰られたくないためだ。


 時計を見ると十二時三十分。五分が長く感じられる。その前に精算しておこう。


「マスター、それじゃ行きます」


「はい。千と二百円いただきます」


 丁度をカウンターに乗せると、僕はグラスの残りを一気に飲み干した。


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