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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
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76(土・日)5月4日~5日

          76(土・日)5月4日~5日



 珍しく那由多が九時を過ぎても寝ている。


 コーヒーを淹れて飲むと昨日のイベントがもう遙か昔に霞んで見える。なのでギターでも持って事務所へ行こうと、書き置きを残して部屋を出た。


「おはようございます」


 まだ出社したばかりと見える菅原さんが少々驚いて、


「何かありました?」


「ああ……相方がまだ寝てたんでこっち来ました。じゃまでした?」


「いえいえ、どうぞ使ってください」


 言うと、彼は専務室へ入った。


 僕はギターを取り出し、磨くことからスタートする。弦には滑りをよくするようフィンガーイーズを噴いた。


 昨日のオープニングで上手くいかなかった『西高東低』のコードチェンジをあらためて練習する。一音ずつコードを変えるという、かなり複雑な仕様になったのだ。


 小一時間そのフレーズを弾いていると、関さんがやってきた。


「お、真面目にやっとるな。昨日のライブ音源もろうて来たけんダビングして配ろう思うてな」


「音源ですか?」


「PA録りやけん音質はよかぞ。出来たらやるけん」


「はい、楽しみです」


 関さんは棚の隅からダブルカセットを持ち出し、空いてそうなカセットを探していた。


「とりあえずTIMESは飛ばしていこうかね。これ倍速で録れるけんね、早やかぞ」


 言いながら関さんは僕の演奏を頭出しして録り始めた。キュルキュルと早回しの音が聞こえる。そして五十分後、


「じゃあ日向さんにも渡しとって」


 二本のテープをもらい、お礼を言ってマンションへ戻った。


「ひやあっ!」


 部屋の真ん中で着替えの真っ最中だった那由多が声を上げた。


「いきない帰っへ来ないれくらはい」


 歯ブラシを動かしつつ、彼女は僕を睨む。


「電話するほどじゃないだろ。これ、昨日のテープ貰って来た。聴くか?」


「聴きまふ」


 まずは那由多の方から聞いてみようと思い、テープをセットした。


「ストップ! やっぱり私ひとりで聴きます。ナオミさんどうぞ」


「いい加減、自分の声に慣れろよな」


 僕はテープを入れ替えて杉内バンドの演奏を流し始めた。イントロ以外は上手くいっている。声も充分に出ていた。


「朝から唄えるもんだな」


「こんなきれいに録れるんですね。私のも……ドキドキ」


 ひと通り聴いて分かったのは、ブレスの位置に改良点があることだ。歌詞に振り回されて唄っているイメージがある。


「どうすんだ。ひとりで聴くのか」


「まあ、そのうち……」


 那由多はカフェオレをカップに入れ、ソファーに座るとテレビをつけた。



 夜を待ち、明日の本番の妨げにならない程度にと思って中州へ出た。が、思うようには行かないもので、


「お兄ちゃん! 景気のよかヤツば一発!」


 長崎で会ったヤンキーのような二人組が来たので嶋大輔の『男の勲章』を唄った。


「もうちょいやね。長渕唄うてや」


 結局『とんぼ』に落ち着く。


「よかったばい!」


 投げ銭もなく立ち去られた。こっちはのっけから喉がフル回転だ。


 その後、九時になり、そろそろ今夜は――と思っているとリクエストが入り、そんなことを続けているうちに十一時になっていた。那由多も遅いようだ。荷物をリュックに収めて陣中見舞いに行くと、八代亜紀を唄わされている彼女が見えた。中年の集団は大受けしている。


 とりあえず客が退くのを待って顔を出すと、


「もっと早く来てくださいよ。喉が潰れそうです」


 と泣きつかれた。


 部屋へ戻るとバスタブに湯を入れ、お風呂じゃんけんをした。


「じゃあ私、あとでいいです」


 多分その隙にテープを聴く気なのだろう。なのでいつもより長めに湯湯に浸かり、熱い湯を足しておいた。明日は三十分。フルスロットルで唄おう。


 案の定自分の歌を聴いていたのか、ラジカセの前で固まっている那由多がいた。


「ライブ前に聴くものじゃありませんでした……私の声ってこんなだったんですね」


「人によっては羨む声だ。自信持てよ」


 心にもない慰めをの言葉をかける。自分の声は聞き慣れればなんてことはない。


「皆して『化けもの』とか言うくせに……」


「それはパフォーマンスの話だろ。『大物』って意味だ」


 その後風呂に入ると立ち直ったのか、


「私、お風呂で唄う歌がいちばん好きです」


 頭をゴシゴシやりながら床へ座った。そして、


「明日ってなんでナオミさん前座なんですか」


「事務所の打ち出し方だろ。まずはお前を売りたいんだよ。それが終われば俺の順、今度は那由多がオープニングになるかも知れない」


「そんなもんですか。せっかくならお客さんにいっぱい聴いてもらった方がいいと思うんですけどね」


「それよりカバー曲、決まったんだろな」


「ええ、まあ」


「じゃあ一時だし寝るか」


「そうしましょう」



 遅い朝食は家で取り、オータムへは一時に向かった。一番乗りだったらしく、TIMESメンバーも来ていない。控室に入ったが、よくよく考えればオータムでのライブは初めてだ。スタジオばかり使っていたので中を知らない。


 関係者だし別にいいかと、那由多を置いて舞台へ出てみた。照明の落ちた会場に五、六十人規模のスペースがあるだけだ。椅子はない。


「ひとりにしないでくださいとあれだけ――」


 背後から那由多が現れた。


「ガランとしてますね」


「逆にライブ感満載だけどな」


 控室に戻るも、誰も来ないまま三十分が過ぎた。ようやく聞こえた足音は慌ただしく、


「韮崎がバイクでこけた」


 小川さんが飛び込んできてそう言った。


「って……大丈夫なんですか」


「まあ、自分で電話かけて来たけん、死ぬこたなかろうばってんくさ」


 あとを追って関さんと甲斐田さんが顔を出す。現川さんも一緒だ。


「杉内君、全編色が変わるけんね。上に言うて来てリハ早めるけん」


 言うと、関さんがドアを抜けた。


「いっつもこういうタイミングで何かやらかすヤツやんな」


 呆れた顔で小川さんが言う。その顔に悲壮感がなかったのが救いだ。ただ、那由多は黙り込んでいる。


「よし、リハ始めようで。日向さんは悪かばってん順リハになるけん。よろしく」


 ドラムのないリハーサルはリズムにばらつきが出て初っ端はグダグダだった。


「すいません! ギターとボーカルのモニタ上げてください! そいからピアノ、音質もっとシャープに」


 関さんの指示が飛ぶ中、僕は精一杯自分のギターを弾いて唄うだけだった。他に何が出来る訳でもなかった。


「杉内君、リズムしっかり! なんば練習してきたとや! ドラム任せのリズムじゃ今日はやれんぞ! 君が皆ば引っ張らんと!」


 焦るまいとするほどリズムが走る。それをギターで抑え込んで慎重にボーカルを乗せる。そこへさらに注文がつく。


「ボーカル神経質になっとるばい! いつもの解放感がなか!」


 そうは言われても即席のアレンジに対処できる腕がない。


 三十分程続けると形が見えてきたようで、


「じゃあ通してみよう。カウントは俺が出す」


 関さんが言うとステージの空気がしまった。


 結局五曲全編のリハが終わったのは二時半で、那由多のリハーサルには十分余裕があった。


「那由多、リハ聴けないけど」


「構いません。ステージではお互いやるべきことをやりましょう」


 ギターを持つとステージ袖ですれ違った。


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