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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
148/272

71・(火・水・木)4月30日~5月2日

          71(火・水・木)4月30日~5月2日



 連休明けの火曜日は暇を絵に描いた雰囲気で、ほとんど何もないままに時間だけが進んでいた。九時までに小銭も入らないのは恐らく初めてだ。


「頑張っとるな」


 現れたのはK,sファクトリーの上綱さんだ。


「こんばんは」


「君んとこの社長はどうにも忙しゅうてつかまらんね」


「週の半分、東京らしいんで」


 笑みを保ちつつ気を引き締める。


「ストレートに訊くけどね、CD制作に関わってみんか」


 僕は唾を飲み、


「それは僕のオリジナルという意味ですか」


「いや、それは残念ながら無理ちゅうもんばい。ただ、最低二曲入れよう」


「そうですか。ありがたいお話なんですが、この度、務所の方でCD制作の意向が固まったようでして、そちらに専念しなければいけません」


 もちろんウソだ。しかし効果は絶大で、


「そげん話のあるなら仕方なかたい。また縁のあれば一緒に仕事ばしよう。そいじゃ」


 急に興味を失くして明治通りへ歩いて行った。仲井間さんの話がなければ「いい話」くらいに飛びついたかもしれない。それでなくとも事務所が断るだろう。


 ところで那由多が今日は欠席している。どこかで風邪をもらったらしく、症状はそこまでひどくないが、


 ――「ナオミさんにうつさないか心配です」


 狭い部屋の中、うつるならすでにうつっているはずなので、気にはしていない。


 那由多の容態が気になるので、奇跡的にノルマが入った十時ですぐに荷物をまとめてマンションへ戻った。


「おい、どんな感じだ」


「ナオミさん……こんな時間に上がっていいんですか」


 那由多は洟を啜りながら時計を見る。


「何も食べてないだろ。おかゆとおじや、どっちがいい」


「おじやの方向で……」


「分かった、少し待ってろ」


 冷蔵庫からラップ保存していたご飯を用意して、ダシを溶き、固まったご飯を入れる。ネギを刻み、卵を溶いた上に乗せる。


「無理に全部食べることないからな。少しでもいい」


「ありがとうございます。私、今日のノルマ出せなくって――」


「それは明日でも明後日でもいいから。まずは食べて薬飲んで寝ろ」


「はい……」


 僕は那由多が食べ終わるのを待ってキッチンへ戻り食器を洗う。たとえば五月の長崎で今の那由多と同じ状態になったらどうしていただろう。それを思うとふたり暮らしというのは心強いものだった。支え、支えられ、絆は深まってゆく。そして、そこに恋という名はなかった。きっと別の物に変わっているのだ。


 テーブルにひとりで向かい、ノートにペンを走らせる。歌詞ノートも二冊目に入った。その日その時の心情を綴ったノートには、この一年近くが詰まっている


 那由多のCDデビューも間近かと思えば、僕は僕でその順番を静かに待っていた。作れるものなら作りたい。そして僕はその一枚一枚を見知らぬ街で売り歩くのだ。それを思うと心に小さな灯がともる。仲井間さんが「それは無理だ」と言った手売り販売をやってみたかった。が、どれもこれも自分のCDが出来上がってからの話だ。



 翌日になると那由多も少しは体調が回復して、


「汗ばんでるんでシャワーしたいです」


 と言った。僕は温めでバスタブに湯を張り、


「まだふらついてんじゃないのか」


「大丈夫です。昨日のおじやで回復しました」


 それから三十分。なかなか出て来ないなと思っているとバスルームの戸が開いた。


「コーヒー牛乳買ってるからな」


 僕が言うと笑みを見せた。無理やり作った笑みに見えた。


 風呂上がりにリビングでくつろいでいるので、


「寝といた方がよくないか」


 訊ねると、


「ナオミさんの顔が見れるからこっちの方がいいんです」


 と、普段なら言わないようなことを言って驚かせた。


「今日は俺、休んでもいいんだぞ」


「いえ。イベント前ですからナオミさんは出てください。私は……明日から出ます」


 いつも強気な彼女の弱音だ。それを汲んで、今日は俺も休みだ、と言う替わりに通販のカタログにつき合っていた。


「このビーズクッションってヤツ、テレビ見るのに最適そうなんですけど」


「そのまま寝そうな感じだな。それよりギタースタンド欲しいんだけど」


「そういうのはここにありませんけどね」


 少しなりとも明るい彼女の顔を見ると安心するが、路上は明後日からの方がよさそうだ。イベント前に一日くらいは唄っておきたいだろう。


 夜八時になっても動かない僕に安堵したのか、


「もう寝ろよ」


 と言う僕へ素直にうなずいた。


 僕も十時に書き物を終えてベッドへ向かうとすやすやと眠っている那由多が見えた。食欲さえ出れば明日にはだいぶよくなるだろう。



「大丈夫です。今日は唄いに出ます」


 朝十時。TIMESとの直前リハーサル支度をしていると、起き出してきた彼女がひとつ伸びをして言った。


「そうか。病み上がりだから投げ銭は気にせず、喉の調子だけ気をつけて唄えよ」


「はい。行ってらっしゃいです」


 事務所前にはハイエースが止まっている。階段を上がって事務所へ向かうと、


「おはよう」


 メンバーが迎えてくれた。ピアノの現川さんも一緒だ。


「なんや、コケシンは風邪ひいとったとか。ギリギリやな」


「さすがに今夜は唄いに出るみたいですけど」


 なんにせよ市販薬と静養とで手は打ち尽くしているので、僕は自分のバンドに集中するだけだ。


 オータムへ着くと、ドラムの韮崎さんが先に来ていた。


「遅かっちゃなかか。十分前集合ぞ」


「ワイが早過ぎっとさ」


 小川さんが言うと、韮崎さんはドラムスティックを回しつつ笑った。


「早う叩かせろさ。最近欲求不満っちゃけん」


 いつも通り関さんが受け付けをすませ、D‐4のドアへ六人で向かう。


「最初TIMESナンバーからやるけんさ、杉内君は休憩しとってよかよ」


 とはいえプロのリハーサルなどそうそう見られる訳もなく、僕は後学のため真剣にそのリハーサルを見学する。


「ドラムピッチ落ちとらん?」


「誰かノイズ入っとるぞ」


「韮崎だけんそこ、3/4じゃなくて6/8やって。唄えんごとなるやろ」


 言っている意味は分からないが、いつもはヘラヘラしている小川さんまでもが汗を飛び散らせながら真剣な顔を見せていた。


 五十分の真剣勝負が終わり、それぞれに休憩に入る。小川さんと関さんは煙草を吸いに通路へ出た。


「お兄ちゃんは屋外イベント初めてか」


 ポカリスエットを飲みながら韮崎さんが訊ねてきた。


「ええ、実は」


「面白かぞ。不思議なくらいオッちゃんオバちゃんしか聴いとらんけんね」


 言うと髭を揺らして豪快に笑った。


「そいにしてもお兄ちゃんの歌は優し過ぎるな」


「僕の歌、ですか?」


「厳しか優しかの方じゃなくて、簡単って言う意味よ。音楽は何から学んだね」


「そうですね。代表的なのは尾崎豊です。路上で唄うようになってからは意外と歌謡曲が根底にあるんだなと思い始めてます」


「じゃあ歌謡曲ば極めんね。名だたる作曲家、アレンジャーが溢れとるけん。そこには洋楽のエッセンスが濃縮されとるよ」


 洋楽といえばやっぱりロックなのだろうかと、ロックのロの字も分からぬまま立ち上がった。次は僕のリハだ。


「終了―! 明日はよか酒飲むぞ!」


 見学していた小川さんが雄たけびを上げると、リハーサルはすべて終了した。


「ナオミちゃん、『鯨や』で前哨戦しようで」


 飲みに誘われたが、


「今日ばっかりは……那由多のことも気になるんで」


 言うと、


「かあっ! ラブラブビーム浴びたばい。じゃあコケシンにも明日期待しとる言うとってくれ」


「はい」


 ハイエースへ向かうメンバーひとりひとりに頭を下げて、地下鉄へ向かった。


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