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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
14/272

14・(水)5月23日

          14(水)5月23日


 街へと戻った僕はバス停そばの電話ボックスへ入り、街中の安いビジネスホテルを探した。築町市場のすぐそばに一泊三千五百円というホテルがあったのでそこを偽名で予約して、荷物だけ先に置かせてもらい、手ぶらで街へ出た。それから石丸という美術部時代の行きつけだった文具屋へ行き、歌詞を書くためのB5のレポート用紙とクリアファイルと、0.5ミリのペンを買った。


 久しぶりの喫茶エンゼルはランチタイムで混んでいたが、二人掛けの席に座れた。今日もまたドライカレーにベシャメルのかかったエンゼルピラフだ。


 ウォークマンを聴きながら二時半までをそこで潰し、書ける分だけでもと思い、ウォークマンをいちいち停止させながらペンを進めた。その一曲目に覚えた『巡恋歌』はいまだに僕のレパートリーの中で燦然と輝いている。


 二時五十分に会計を終え、中島川を越えて築町市場の方へ向かう。と、見るからに古い建物がある。今夜の宿だ。


「すみません。チェックインいいですか」


 カウンターのオバちゃんは愛想のいい顔で、


「こちらにお名前とご住所ば書かれてください」


 と言う。尾崎直己という偽名に、住所は適当に番地をごまかした。


 昨夜の稼ぎから四千円を出すと預けていた荷物を持ち出してきて、


「じゃあ、402です。エレベーターはそちらになりますんで」


 と、観葉植物の置かれた隅を指差した。ドリンクとカップ麺の自販機が並び、僕はそこでキリンラガーを一本買ってエレベーターに乗った。


 シングルの部屋は手狭で飾り気がなかったが何も問題はなく、窓を開けると中央橋のバス停が見えた。人々の歩く頭が無秩序に行き交い、それを眺めているだけで楽しかった。


 それから僕はサイドテーブルへレポート用紙を据え、ウォークマンを耳に歌詞起こしに戻った。唄えそうなもの、唄いにくいもの、録音中に判断した順にレポート用紙を埋めていった。


 二時間が過ぎ、五曲分の歌詞を仕上げたところで休憩するために缶ビールを開けた。休憩、とはいえ歌詞のチェックをしながらなので頭の中は休まらない。


 僕の中では、せめて一曲だけでも今夜のうちに唄ってみたいという思いがあった。ライブ盤の九曲目『二人歩記』という曲だった。いくつかの悲しみを越えた男女の引っ越しの歌だった。


 その歌詞がとても気に入り、今日にでも唄ってみたかった。なのでB面はさて置き、ギターを取り出してごくわずかな音でコード探しを始めた。左耳はウォークマン、右耳はギター、そういうアクロバティックな形でコピーは行われた。


 一時間後、『二人歩記』はなんとか形になった。完璧にするにはまだまだ十分な練習と時間が必要だが、とりあえずストリートで声を出してあとはキーを探そう。


 昨夜の眠りを取り戻すため少しだけ横になった。こういう時は得てして寝過ぎてしまうのだが、頭の中で何かが昂っていて眠りにはつけなかった。それは麗美に対してとった自分の態度の冷たさが原因なのだと分かってはいた。


 枕元のデジタル時計が午後七時を示すと、ゆっくりと起き上がり、出しっぱなしのギターをケースに収めた。


 カウンターで鍵を渡しながら、


「お帰りは何時くらいで?」


 と優しく訊かれたので、


「一時前には戻ると思います」


 と答えた。昼間のオバちゃんと違ったが、双子のように似ていた。


 柄にもなくアーケードを通って思案橋へ向かうと、人出はあった。日曜祝日の昼間には子供がはぐれてしまうほどの人通りなので、僕はギターケースを人にぶつけぬよう気を付けて歩く。アーケードには迷惑な自転車も通らない。長崎には自転車文化が根付かず、代わりにオバちゃんもオジちゃんもお兄ちゃんもスクーターだ。


 普段の1.5倍の時間をかけて思案橋電停前に出ると、まだまだ明るさが残っていた。そんな中、ビルの影に飲まれて唄うのは嫌いじゃない。


 ギターケースを置いて荷物を出しながら、いつものペースでのんびりと唄っていた。


「頑張れよ」


 スーツ姿の男性に缶コーヒーをもらったのでありがたくいただいた。ケースの小銭は自分で撒いた三百円だけだ。他は知らないが、ここでは八時九時辺りにならないとチップが入らない。皆、自由な夜の雰囲気を待っているのだろうと勝手に思っている。


 どうにも酒が入らないと気分が乗らないと、荷物を置き去りに近場の酒屋へ向かった。麗美は今日、来るはずもなかった。きっと、もう来ない。


 缶ビールの五百ミリを買って戻ると、荷物は当然のようにそこにあった。中高生じゃあるまいし、こんな人通りのある場所で悪さをするヤツもいないのだ。


 酒が入ると少しだけやる気が出て、書き写したばかりの長渕剛をギターで追ってみる。まだ唄える段階じゃないので、ギターコードを確かめながら丁寧に弾いていた。


 そんな真剣な顔が人を呼んだか、


「お兄さんは何が出来るとね」


 赤いネクタイの眼鏡のオジさんが立ち止まった。


「まだ勉強中なんで、色々は出来ないんです」


 すると、


「何でもいいけん。その歌ば唄ってみんね」


 と、練習中の長渕を指差した。ここでさらに「これも勉強中で」などと断れば白けてしまうのは目に見えているので、


「頑張ってみます――」


 演奏に入った。何にせよキーが分からないので手探りだ。あーあー、とギターの音に合わせて声を出し、二カポのCでいけそうだった。


 前奏はCとGだけにして、唄い出してやっぱりキーが違うと思ったが途中でやめる訳にもいかず、なんとか低いキーのままでワンコーラスだけ唄い切った。


「すみません、まだ下手くそで」


 その通りの言葉を告げると、


「お兄ちゃん、それじゃあ金はやれんばい」


 と笑いながらオジさんは去って行った。ウソでも尾崎を唄っていればよかったと後悔した。


 何もないまま九時を迎え、本腰を入れる時間になった。とにかく唄い続けようと、長渕の練習曲は後回しにしていつもの尾崎ナンバーを繋げた。


 すると少しずつではあるが小銭が入り始めた。


(やっぱりこの時間だ)


 一週間の路上演奏でつかんだすべてを出すように唄った。なるべく顔を起こし、人の目を見るように唄った。人は目が合うと逸らすか笑うかのどちらかだ。笑う方を信じて、とにかく唄った。


 これは缶ビールの買い足しがいるなとケースを閉めて酒屋へ行こうとすると、


「もう店仕舞いか」


 さっきの赤いネクタイのオジさんが戻ってきた。その顔は、一杯ひっかけてきたといった感じだ。


「いえ、ちょっと飲み物買いに行こうと思って」


 立ちかけた椅子へ腰を下ろすとオジさんは僕の足元を見て、


「待っとけ、俺が買うてきてやるけん」


 酒屋の通りへ歩いて行った。


 その後どうしていいのやらギターを手に途方に暮れていると、三分程でオジさんは戻った。そして、


「もう一曲、渾身の歌ば唄うてみろ。これはやる」


 そう言って缶ビールを手渡した。


「はい!」


 今度こそ尾崎だと、僕はいちばん自信のある『僕が僕であるために』を唄った。途中の歌詞で訳もなく詰まりそうになったが持ちなおして、最後まで唄い切った。


 オジさんは小さく拍手をしながら、


「泣きながら唄うヤツは初めて見たばい。これ、取っとけ」


 そう言うと千円札を一枚ケースへと投げた。同時に、自分の頬が濡れているのに気付いた。


「じゃあな、勉強せろよ!」


 後ろ手に手を振るオジさんの背中を見つめ、しばらく涙が止まらなかった。その訳を、僕は知らない。


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