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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
132/272

55・(土)4月6日

          55(土)4月6日



「いらっしゃい。あら今日は賑おうて」


 奥の席は空いているが一席だけだ。那由多の荷物と僕のリュックだけ置かせてもらい、僕のギターケースは通路の壁際だ。団体客に蹴られた跡が白く汚れているので帰ったら必死で磨こう。


「てる子さん、ビールとレモンハイと芋ロックです」


 今日は珍しく由美子ちゃんが手伝っている。彼女曰く週末なら憧れの日向那由多さんに会えるかもと思っていたらしい。念願叶った訳だ。


「那由多さんはCDまだですか?」


 レモンハイをカウンターに置いた由美子ちゃんが言うと、


「いや……まだ」


 そこへ小川さんが、


「デモテープでも編集して渡しておかんね。ファンには逆にレアもんばい」


 そうアドバイスした。


「それで、五月五日のライブ前、三日に博多駅前でイベントやるんですよ。那由多、何時だっけ」


「午前十一時です」


「無料イベントなんで、由美子ちゃんも友達誘って来てもらえたら嬉しいです」


「えー、行きます! お母さん行くやろ?」


「私も昼なら行きやすかですね。お伺いします」


 いつもの煮込みに、今日はこごみのお浸し、そしてタラの芽の天ぷらがある。春らしさ満載だ。


「カツオのありますばってん、刺身と叩きとどっちがよかですか」


 てる子さんの問いに、


「どっちも!」


 と答えたのは小川さんだ。そして、


「ナユたんは一回目の躓きに負けそうな訳やね」


 タラの芽を口に放った。中央の席に、入り口から小川さん、僕、那由多の順に並んでいる。


「負けた訳じゃありません。負けそうではありますけど……解決策が欲しいんです」


「それはそれは、さすが学生さん」


 小川さんが煮込みを突き、


「もう義務教育じゃなかけんね。いつでも正解のあるて思うたらいけん。そういう解決策がないって現実もあるってことを知っとかんと。オイはストリートで唄わんけど同じミュージシャンやけん、迷っても唄い続けるしか解決策はなかろうもん」


 意外とシビアなことを言う、と僕はビールを煽る。そして確かにそれは彼の言う通りだ。唄い続ける以外に答えはない。それが仕事になったのならなおさらだ。


「私、コンビニバイトでもしようかな……」


 そこへ憤慨したのは小川さんで、


「『でも』ってなんや! コンビニも立派な仕事やろうもん? 今の仕事ば半端に放り出した人間に仕事のあるか」


「でも――でも、向き不向きってあります」


 そこで泣き出した那由多を由美子ちゃんが心配している。僕の役目は、彼女を慰めることではなく、なぜ今日に限ってそんなことを言うのか聞くことだ。


「なんか嫌なことあったんだろ。言ってみろよ」


「ないです……何を唄っても誰も止まらなかっただけです。でもそれじゃ今後家賃も生活費も払っていけないし……」


「かあっ! そのためにナオミちゃんのおるったい! ここにしっかり稼げるヤツのおる。せれだけで安心せんか。もうひとりじゃなかとぞ? ふたりで暮らしとるとぞ?」


「でも……NOAとか悪い冗談みたいなお仕事もなくなります。まだライブ集客できない私は路上で頑張るしかないんです」


「じゃあ頑張るだけやん。はい、答え出た」


 僕はビールジョッキをカウンターに回して、由美子ちゃんに渡した。


「で、専務から聞いたんですけど、NOAの系列店で定期的にナスティのアーティストを使いたいって」


「マジか? それでもオイたちバンドは関係なかろ」


 タラの芽を苦々しく口にしている小川さんに、


「詳しくは知らないんですけどバンドもありのお店があるらしいです。ただ、何にせよ専務から話を聞いたの僕だけっぽいので正式に通達があるまで内密にお願いします」


「マジで」


「事務所通してですから今までの僕みたいに破格のギャラはないと思うんですが」


 そこへてる子さんが、


「はいカツオ。刺身と叩き。ニンニクとショウガもおろしとるけん好きな方で」


 身のしまった叩きはふくよかな味わいがポン酢ショウガと合った。刺身はニンニクを乗せて醤油で食べる。腹の方の柔らかな身を使ってある。


「てる子さん、美味しいです」


「ホントね。残ったらお茶漬けにも出来るけんね」


 しかしお茶漬けの余裕はないらしい。左右から伸びる箸はカツオの一本釣り状態だ。ただ僕は、食える元気があればいいと彼女の様子を見ていた。



 午前一時になった。


「じゃ、また来週」


「はい、小川さんもお気をつけて」


 昭和通りで別れると、黒い革ジャンが闇に溶けて消えた。


「すみませんでした……」


 歩きつつそう言った那由多に、


「俺でもあるよ。そういう時は。でもこれからは片方が背負うんじゃなくて俺にも片輪を任せて欲しいんだ。で、明日通帳作りに行こう」


「明日は日曜です」


「じゃあ、明後日だ」


「はい」


 部屋に入ると新居の香りがした。やがて落ち着いて馴染んでゆくのだろう。


 じゃんけんでシャワーを決めると僕が勝った。


 シャワーを浴びて戻ると、八畳のリビングで擦り切れた海洋生物図鑑を眺めている彼女がいた。それは長崎のアパートでもよく見た光景だ。


「シャワー、終わったけど」


「はい、急ぎます」


「急ぐことはないけどな」


「じゃあゆっくりと」


「ああ」


 冷蔵庫を見ると、缶ビールが一本――と思ったが、リュックに小川さんの差し入れが残っていた。それを補充すると三缶になる。なので冷えた一本を開けて、涼しいベランダへと出てみた。川の向こうに赤く光る鉄塔が見えたが、那珂川のように情緒のある風景でもない。サンダルを脱いで部屋へ戻り、深夜テレビをつけていた。


 ギターケースをゴシゴシ磨いていると、彼女がパジャマ姿でやって来た。青いチェックのパジャマは昔から使っていたものだと言うが、その『昔』がいつだったかは教えてくれない。世の中には小学校の時に着ていた服がまだ着れる二十代もいるというから、案外そうなのかも知れない。僕としてはゼッケン入りの『日向ジャージ』が懐かしい。


「私、ベッド行ってますね」


 髪を乾かした彼女は隣室へ向かった。ここはすぐにでも追うべきだと、テレビを消して寝室へ向かった。


「今日は、歌詞ノートはいいんですか」


「ああ。頭の中グチャグチャなんだ」


「すみません、そんな時に面倒くさいことを」


「面倒なんてない。お前の心が少しでも見えて嬉しかった」


 ガラステーブルにキャンドルが揺れている。香りはラベンダーだ。


「私……心が狭いんです。きっと」


 そんな彼女が眠りにつくまで僕は背中を撫でていた。


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