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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
130/272

53・(木)4月4日

          53(木)4月4日



 翌日、彼女は買い出しに出ると言った。


「甲斐田さんに車出してもらえるよう頼んでたんですよ」


 慣れないベッドを置き出し、


「俺は行かなくていいのか」


「ええ、ナオミさんは待っててください」


「じゃあ甲斐田さんによろしく」


 僕はまだ落ち着かない部屋でソファーに腰を下ろすと、『衣類』『雑貨』と書かれた箱を見つめる。人生二度目の引っ越しは何を連れてくるだろう。


 勝手に開けるとあとが怖いので段ボールはそのままに、使い込まれた白いソファーに座ってテレビをつけた。そういえばチャンネル設定をしていなかったと、どこかにあったこちらの新聞紙を開いてテレビ欄を見ながら設定を終えた。キッチンのマグカップは僕のところから持ってきたものだ。僕は黒いカップにコーヒーを作る。博多の水にはまだ慣れない。


 日が傾き始めた所に那由多が戻ってきた。甲斐田さんも一緒だ。


「ナオミさんこれお米、流しの下に入れといてください。女二人が両手に袋を下げている。


「おじゃまするねー。あー、見晴らしいいやん。ウチなんか隣の屋根しか見えんけんね。」


 キッチン前であれやこれや詰め込んでいる女子がふたり、密談でもするように楽しげだ。


「よし、あとは食材調達やね。生鮮は川端の商店街ば使えばいいよ」


 とは甲斐田さんの言葉だ。


「甲斐田さん、ありがとうございました」


「ううん。昼は暇にしとるけん、使うてもろうてよかとよ」


「ちょっとコーヒーでも淹れますよ。まだ片づいてないですけど」


 僕はキッチンで湯を沸かす。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 那由多は甲斐田さんにすっかり心を開いているようで、生活のあれこれを訊いていた。


「二人暮らしは経済的ではあるけど、ふたりみたいに日銭の入る身で見誤ったら大変になるけんね。ウチの宿六みたいに昼間からビール飲んどったら月末に大変なことになるけん。ストリートのお金は近所に口座作って逐一入れるようにした方がいいよ。生活費とは分けてね」


「らしいですよナオミさん」


「俺はストックしてるって。余りで飲んでるだけだ」


「大口の営業もいいけど、小さい営業を大事にね。長く続けば拠り所になるよ」


「はい」


 とふたりでうなずくと、甲斐田さんは立ち上がった。


「じゃあ、なんかあったらまた電話し。いつでも使うてもろうてよかけん」


 玄関先に出ようとすると、


「ああ、ここでよか。じゃあね」


 彼女はサラサラの髪をなびかせるとサンダルでドアを抜けた。


「ということで――」


 那由多が例のやぶにらみで、


「ビールは一日二本。煙草も一個にしてください」


「ノルマ渡せばいいだろ。それで日に二千円は積み立ててるぞ」


「あなたは貯蓄を舐めている! いいですか、もうNOAみたいな大口営業ないんですよ。そこにきて知らない街で何があるか分からないんですよ? 出来る限り貯蓄に回せばいいじゃないですか」


 出来るなら、それがいい。しかし、


「じゃあ具体的に俺が使える金はいくらになるんだよ」


「日に三千円のノルマを超えた分です」


「な、暇な日が続いたら千円なんてざらなんだぞ。二千円でいいじゃないか」


「でも放っておいたらナオミさん、稼ぎの半分を毎晩使って来るじゃないですか」


「あれは投資だ。たまにはチケットも売れる。チップも入る」


「とにかく初月は何があるか分かりません。財布の紐は絞めていきましょう」

 


「ということがあったんですけど。小川さんもその調子ですか」


 夕暮れの事務所で小川さんと向かい合っていた。那由多は荷物を出してしまうので僕はいない方がいいと言うことだった。体よく追い出されたのだ。


「まあ、刹那もそう言うやろね。お蔭で俺もピーピーにならずにすんどるけん。オイ、いまだにお小遣い制やけんね」


「はあ」


「アイツも苦労人やけんさ、兄貴と交代で親の介護しながら音楽やっとるし、人の生活まで気にするとも勘弁してやってくれろ。その代わりアイツは好きになった人間じゃなからんば手助けせんけん」


「いえ、ありがたいのはありがたいんです。特に那由多はこっちで色々と相談できる女性がいないんで、助かってます」


「ま、刹那も可愛か後輩の出来て喜んどる。持ちつ持たれつでよかとじゃ? おう、そいじゃバイト行ってくるけん。帰りに寄るかも知れんぞ」


「はい、行ってらっしゃい」


 小川さんを夕暮れの街へ見送ると、珍しく落合専務が顔を出した。


「あ、お疲れ様です」


 立ち上がる僕に、


「ああ、そのままでよか」


 蛍光灯をつけながら目の前にどっかと腰を下ろした。


「今、岡崎興業さんと話しばしよった」


「岡崎さんとですか?」


「ああ、副社長のね。どうにも君は気に入られとるね。お蔭でウチにも仕事が回って来たよ」


「はあ……」


「月に二回、系列の店でライブをやって欲しいらしか。NOAほどの大きいとこじゃないけど、それでも高級クラブやね。で、人選はウチに任せるという。店によってはTIMESのようなバンドもありだと。ウチとしては半年契約という形になる。評判がよければ契約更新もありと」


「そうですか」


「ははは。そうですかじゃないよ。君が呼び込んだ仕事たい。もっと喜ばんね」


 しかし岡崎さんなきあとのNOAに行っても麗美はいない。そのことが無感動に心の内を占めた。


「四日後にライブやろ? そこで詳しい話はあるやろう。今後は事務所のお客さんやけん、くれぐれも失礼のないようにね」


 すべて「はあ」しか言えず、僕はギターを担いで一礼すると中州へ向かった。


『失くした1/2』を手始めに、今日も尾崎ループは続く。それは誰かの反応があるまで続く。投げ銭でなくとも、通りすがりの笑顔でも「頑張れ」の声でもいい。


 八時を前に思いがけず千円札が入った。


「ああ――」


 見れば、がんにゃでよく会うナオさんとご一緒の紳士だ。


「頑張っとるね」


「ありがとうございます」


「あっちでも女の子の唄いよったけど。あの彼女さん?」


「ええ。まだ中州に慣れていないんで顔見たらよろしくお願いします」


「また覗いてみるよ。それじゃ」


 後ろ姿に僕は声を上げる。


「ありがとうございました!」


 遅くなった日没。頬をかすめる風の優しさ。確実に春の訪れを身に染みて感じながら僕は唄う。天候と季節に翻弄される路上ミュージシャンならではの感覚が、すっかりと身についていた。まだ四月。やがて来る夏に思いを馳せる者は少ないだろう、けれども僕は夏を描く。刺すような日差しと汗ばむ熱気。陰を求めて歩く道。そして今はまだ、心震える春。


 ――君の涙雲 北へ流れて 雪解けの笑顔 彼にも届け

 ――巡る星の下 人は流れて そして風向きはいつも明日へ


『西高東低』を唄う僕はいつか夢見た旅をこの胸に刻む。いつか音楽の道が閉ざされた時に、あの歌を携えて旅に出よう。僕はそこでようやく自由になるのだ。


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