13・(水)5月23日
13(水)5月23日
すでにお決まりになった寝室へ向かうと、彼女は灰皿を持ってやってきた。ブラなしの黒いキャミソールに黒いショーツだ。同い年の女性の生態は分からないが、恋人の理恵とひと晩過ごした時はホテルの浴衣だったし、それも一度だけ、彼女の好きなアルフィーのコンサートに便乗して福岡へ行った時だけだ。なので麗美のそれが女性一般の寝る時の姿なのかは分からない。
麗美は僕が横になっているベッドの縁を越えて窓際へ横になる。それもいつからか決まった定位置だった。
「なんかね、狭かとこが好きとさ」
彼女はそう言いつつ僕の身体を越えて煙草を消す。瞬間、その胸の柔らかさと温もりが伝わるが、僕は言葉にしない。その代わり、
「すぐ寝る?」
今度は僕が煙草に火をつけて灰皿へ置いた。ふたりとも、シーツの中は下着姿だ。
「なんで? 眠れん?」
僕は煙草を一服してから、
「麗美の話、聞いてみたくて」
彼女はドライヤーで乾かした後の髪をルームライトに透けさせながら、
「いいよ。何から話す?」
「その……高校って行ったかなって」
「うん、偏差値の低か女子高やったけど。なんで?」
「学校、楽しかった?」
麗美は身体を反転させて枕を肘置きにした。その体勢だと胸の谷間が見えそうになり、さすがに僕も目を逸らした。細い金色の鎖がキラキラと光っていた。
「楽しかったよ。だって友達ってそこにしかおらんたい。毎日ギャアギャア喋って放課後になって、で、街に出て」
僕の高校生活とは大違いだ。まぐれで県立の進学校に受かったのがそもそもの間違いだったのだ。
「ナオミ君はどうやったと? 面白くなかった?」
「俺は……毎朝バスに揺られて、七時半に学校に着いたら一時間目の予習して、授業が始まって、中身は半分くらいしか分からんで、弁当食べたら午後の予習して、出来の悪かったけん放課後は補習で、夏休みも半分以上補習で――」
「何それ! 勉強しかしてなかったと?」
「いや、部活もあったけど。ていうか部活のためだけに学校に行ってた感じがする」
僕は短くなった煙草を灰皿で消した。
「部活って、何の?」
「美術部」
「へえ。絵、描けると? そしたらあたしのこと描いてくれる?」
彼女の笑顔が揺れる度、その白い胸も揺れていた。見えてはいけないところまで見えてしまったが、何も言わずにおく。
「人物画って苦手でさ。そん時の彼女も美術部やったけど彼女の絵も結局描いてないし」
「ふーん。あ、いつの間にかナオミ君の話になったね。あたしに訊きたかことは?」
「ううん。何か話したら楽になったけん。今度でいい」
「そう……。じゃあ、そうする」
うつ伏せのまま枕に頭を乗せた麗美が、ルームライトのせいか憂うつに見えた。僕のつまらない話のせいなのかも知れない。けれどそれを取り繕うにも静寂は長く、新しい煙草に火をつけるのが精一杯だった。
そこへ、一滴の水滴が重力に負けるようにして彼女の声が落ちる。
「ナオミ君、家に帰って彼女さんと仲よくする方がよかよ」
不意打ちの言葉に、僕は煙草を落としそうになる。
「今さら……帰れんよ。あげん家」
「彼女さんのことは?」
いつしか彼女の質問タイムに入り、僕は頭の隅に追いやっていたことを引きずり出さなければならなかった。
「麗美とおる方が楽しかし、ストリートだって近かし」
「じゃあナオミ君、楽しかことばっかりで生きていくつもり?」
予想外の質問に戸惑ったが、その戸惑いが連れてきたのは思いもかけない行動だった。
「ナオミ君?」
急にベッドを抜けた僕へ、驚いた彼女が名前を呼ぶ。
「麗美の言う通り、辛かことも必要やけんね。今日は帰るよ」
「帰るって、あそこ布団も何もなかやろ」
「あそこもオバさんに嫌われとるけん。もう行かんようにするよ」
「けど――」
先の続かない麗美に、僕は決定的なひと言を告げた。
「家に帰った方がいいって言ったとは麗美やろ。これからはストリートに入った金だけで生活する。そしたら親にも麗美にも何も言わせんですむやろ」
何も言えない彼女が黙っているうちに、僕は着替えを終えて荷物を置いたリビングへ向かった。
「待って! ごめん! 謝るけんここにおって!」
ベッドを抜け出してきた彼女に縋られたが、僕はその手を冷たく振り払った。
「俺、恋人おるけんさ。こういうこと何回も出来んけん」
下着姿で立ちすくむ彼女をリビングへ置き去りにして、僕は玄関へ向かった。
深夜三時の篭町は緩々と進むタクシーが流していた。時折足元のふらついたお姉ちゃんが男にしがみついて歩いていた。行き場もない僕はサザンクラウンの消えた看板を見上げて、煙草に火をつけて通り過ぎる。
兄貴の行きつけがあるライオンタワービルに上ってみようと思ったが、家族の匂いのする場所に足を向けたくなかった。家族も、理恵も、麗美も、僕の中から消えてなくなればいいのにと思った。そうでなければこの寂しさはやり場がなかった。世界を大切なものとそうでないものに分けながら、いつ出来たか分からない水溜りを踏んで僕は歩く。
すれ違ったカップルが僕を見て何か囁く。けれど僕にはどうでもいい。僕はそうやって、指を差されて笑われていればいいんだ。街角でギターを抱えて、誰も知らない歌を唄い、笑いものにされながら小銭を投げられ、そして僕もまた卑屈に笑いながらギターを鳴らす。それがストリートミュージシャンだ。
しばらく通りをふらついていたが、結局どうしようもなくなって、マルエイアパートの階段を踏んだ。裸電球一つきりの廊下をミシミシと歩くと、どこかの部屋でラジカセが鳴っているのを聞いた。
0号室の開きっ放しのドアを開けると、灯かりをつける。すると驚いたことに見知らぬ男が毛布にくるまって眠っていて、僕は慌ててアパートをあとにした。これでついに行く所もない。
ホームレスが多いと聞く湊公園のベンチで寝そべると、僕はまた煙草を吹かした。ここで眠ってしまってはいけないと言い聞かせ、明けてゆく空を無口に待った。ひとり言のひとつも出はしなかった。
やがて日が昇り、街が動き出すと、僕はマクドナルドへ向かう。対面のロッテリアはバイトの経験があり、見知った顔に会うのが嫌だった。
モーニングのセットを頼み、トレーを左手に、ギターを右手に階段を上がる。絶妙なバランス感覚が必要な一瞬だ。
ハンバーガーとポテトを胃に収めてコーヒーを飲み干すと、いつの間にか壁にもたれて眠っていた。時計を見ると九時過ぎで、その一時間ほどの微睡で僕は昨夜の眠りを補った。
ゆっくりと立ち上がり、ゴミをダストボックスへ入れ、トレーを置き、そろそろ空いたバスに乗り込むと、僕は自宅へ向かう。それはストリートのために必要なことだった。兄貴の持っている長渕剛と松山千春のレコードをテープに落とすのだ。路上ではそのリクエストに応えられないのは致命的で、僕の唄う尾崎豊をリクエストするのは百にひとつの割合だったからだ。
僕はバスに揺られて、空のテープがなかったら理恵からもらったアルフィーのテープを潰そうと思っていた。
家に帰るのは連れ戻された日から二日ぶりか三日ぶりか忘れていた。それより何よりいつもの場所に鍵がなかった。赤い郵便受けに鍵が入っていないのだ。
(賭けてみるか――)
僕はまず荷物を玄関へ置き、家を抜け出した時の逆の手順でベランダをよじ登った。そばにブロック塀があるのでそれはそこまで難関ではなかった。
問題は二階のサッシの鍵だったが、いつもの通りそこも開いていた。僕は素早く部屋へ入ると階段を下り、鍵を開けて荷物を中へ入れた。
次にCDコンポの電源を入れると、目ぼしいレコードを数枚取り出し、運よく残っていた百二十分テープへ録音開始した。
今でこそ音楽のダウンロードは一瞬だが、その頃は四十分の録音ならばきちんと四十分待たなければならなかった。しかも途中、A面とB面をひっくり返す作業が必要だった。
もしも今、誰かが帰って来たら、と思いながらも、その心配はほとんどない。親は二人とも仕事、兄貴も仕事、弟たちは学校だ。
一枚目の長渕剛のレコードがB面に突入した。時計を見ると三十三分過ぎだ。三分オーバーだと舌打ちしたが、B面の最後の曲はカットしてもいいと覚悟した。しかしライブ盤のレコードはムダなMCが多く、僕はそこをカットすることで片面六十分のカセットにすべてを収録した。ただしその作業で時間はロスした。
次は松山千春だと考えたものの、聴き進むにつれ、これは僕の趣味じゃないなと、もう片面も長渕剛のアルバムを入れることにした。アルバム名は『HOLD YOUR LAST CHANCE』だった。録音が順調に進んでいるのを見据えて、ボリュームを下げた。
午後十二時十五分。僕はアルバム二枚分の録音を終えた。それからワードローブを入れ替えるつもりで着替えを取り出し、カバンの中身と入れ替えた。
そこから先は最初の順序を逆に、玄関先へ荷物を出し、鍵をかけ、二階に戻り、ベランダから地上へ下りた。人気のない住宅街で本当によかったと思う。
街へ戻るバスは乗車率五十パーセントで、僕はサングラスをかけて最後列に座り、録音したての長渕剛をイヤホンで聴いていた。大きなギターケースも手伝い、誰も僕の隣に座ろうとはしなかった。




