43・(月)3月25日
43(月)3月25日
二番手のKohさんには、申し訳ないが特筆事項がない。
「お疲れ様でした」
形ばかり労いの声をかけ、ギターを用意しながら僕は自分のセットリストをすっかり忘れていた。とりあえずは佐野元春の『SOMEDAY』を唄おう。唄いながら次の曲を決めよう。という路上的アクロバティックな手法を取った。
「えー、杉内直己と申します。ホントは大好きな尾崎豊を唄おうかと思ったんですが、あそこまでの歌を聴くと自分にはまだ早いと思い直しまして、こういう歌から始めます。『SOMEDAY』です」
客席を見ると、しっかりとこちらを見つめている目、食事に気を取られている目。様々だった。ただそれは路上風景と同じで、僕の心に影を落としはしない。聴いてなくても聴こえる歌、それが僕の歌だ。
せっかくあれだけ練習したのだと思い、サイモン&ガーファンクルを二曲目に持ってきた。なんの脈絡もないので、
「じゃあ次はまったく関係ない歌を」
と言い置いて『The Sound Of Silence』を唄った。イントロがきれいに決まると心地いいい名曲だ。演奏が終わると知っているお客さんがいたのか、
「いいよー!」
と声を上げてくれた。ならば三曲目もと、『THE BOXER』を唄った。これは短い拍手に終わった。
「では最後の曲になります。この場の盛り上がり次第ではCD化する可能性もある歌です。『西高東低』!」
目の端に真っ直ぐとこちらを向いている麗美の姿が見える。帽子のつばで表情は見えない。ただ小さく笑った口元だけが見えていた。
「ありがとうございました! 次は柿沢しぐれさんです!」
カウンターへ向かっていると、ナオさんが、
「よかったよ。尾崎抜きのナオミちゃんもレアやね」
「ありがとうございます」
「ウチ奢るよ。ビール飲んで」
「ああ、いただきます」
僕はビールをもらい、那由多と小川さんの座る窓際の前の席へ着いた。
「こんばんわあ。柿沢しぐれですう。全然定着しないんですけどお『カキシグ』と呼んでくださあい」
フワフワした声で笑いを取っていた。上着を脱ぐと露出の高い恰好でショートパンツに黒いボンデージのトップだった。楽器はウクレレだ。
「じゃあ一曲目ですう『ハイライト』」
理解不能な難解な歌だったのでついていけなかった。
――分かったふりは得意です
――分かったふりは得意です
というフレーズだけ印象に残った。
「次の歌は『マイルドセブン』ですう」
煙草繋がりだが、またもや理解不能な歌詞が続いた。いい加減に三曲目で、
「三曲目ですう『マルボロ』」
そこまで行くとそれが笑いどころなのだと気付く。結局四曲目は、
「最後ですう『ゴールデンバット』」
今日いちばんの笑いを取っていた。
そんな色物のあとに続けるのかと思い那由多を見ると、静かに闘志を燃やすでもなく、巨峰サワーを飲み干した。
那由多はここでもあの変則ステージを行うようで、僕もマイクセッティングに駆り出された。
「いいのか? 奥のお客さん見えないぞ」
「ナオミさん、歌ってのは耳があれば聴こえるんですよ」
「はいそうですね。じゃあどうぞ」
バスマットに胡坐をかいてぼろ布のマントを纏った彼女が、珍しくMCから始めた。
「来月、長崎から博多に本拠地を移します。日向那由多です。今日は事務所の先輩が三人もいるのでこの際言っておこうと思います。杉内直己さん、女性気があり過ぎです。恋人としては内心冷や冷やです。小川さん、私の名前はこけしじゃありません。それと仲井間さんには苛められないか心配です。とりあえず挨拶の時に目を逸らすのをやめて欲しいです」
そこでは主にミュージシャン連中が笑った。仲井間さんを見ると無表情ではいられなかったらしくビールグラスで表情を隠していた。
「人間、いいとこばっかりじゃありません。悪いとこばっかりの人もいないと思います。そんな思いを込めた、人の苦しみの歌から。『翼なき者』」
――憎しみをひとつ この手に乗せ
――悲しみをひとつ忘れ
――営みは今日も ささやかに続く
――生まれ落ちた者たちに
――影が過る 幸せの影が
――届かぬ空へ手を伸ばして
――ああ いつか 雲になろう
――流れゆく先も知らぬまま
――ああ いつか 君の下へ
――翼なき人として
この数週間でまた進化した歌声が店内を埋めた。ムダ口を叩く客もいなかった。小川さんが煙草に火をつけたまま、次の煙草をつけていた。
二曲目からは一転してマイナー調の『墓標』。そして『天の川』では絶品の声が出ていた。店のガラス窓が共鳴して震えていた。
「それでは最後の歌です。『夕凪』」
――儚きこの思い 君に捧げよう
――儚きこの命 すべて捧げよう
曲の終わり、静かに続くアルペジオに焦らされたあげく、糸が切れるように曲は終わった。その後の拍手は言うまでもなかった。
「お疲れ様でした!」
五アーティストとなぜか小川さんがグラスをぶつけると打ち上げだ。
「ナオミさん、私ご飯食べてないんですよ」
「メニューあるよ」
「……『ほとばしる炒飯』が気になります」
「じゃあ頼めよ。俺は飲むのに手いっぱいだ」
その後、仲井間さんとの距離はやはり縮まらなかったが、まずい空気ではなかった。彼が本当に尾崎豊を愛していることが分かったのが手土産だ。
「ナオミ君、行くね」
不意に後ろに立ったのは麗美だ。
「ああ、で、大丈夫なのか」
「旦那さんには言うて出て来たもん。ナオミ君のこと、信頼しとるごたるよ」
その信頼を裏切らないうちに帰すのが上策だろう。
「じゃあな。なんて言っていいか分かんないけど、幸せになれるかは自分次第だから」
僕が言うと、
「うん。ナオミ君も日向さんと仲よくね」
すると聞きつけた那由多が、
「私がどうかしましたか」
「日向さん、頑張ってね。歌、よかったよ」
「はあ……どういたまして」
「じゃあ帰るけん。またいつかね」
彼女の顔に未練はなく、わだかまりも残らなかった。
その後、僕は名刺配りに奔走し、お客さんからミュージシャンまで名前を知らせた。五月のライブへの布石だ。
外へ出ると欠けた月が西の空に見えた。小川さんは「じゃましちゃいけんから」と、店に残って飲んでいた。
那珂川通りを歩きつつ、
「卒業おめでとう」
「ああ、そうですね。ありがとうございます」
「今日はウチだろ? 言ってあるんだろ」
「もちろんです」
「そういや、まるごとバナナ復活してたぞ」
「マジですか! でもナオミさん路上は?」
「今日はいい。つーか俺も食べ損ねてさ。てる子さんとこ行っていい?」
「そんな毎回外食するお金はあるんですか? 私が来たら財布の紐はきっちり握りますよ」
「一昨日もNOAでライブ営業だったんだ。三万円の余裕がある」
「ナオミさん、絶対神様に甘やかされてますって」
「そう言うな。毎晩唄っている成果さ。実はお前にもそのチャンスがあるんだよ」
「詳しく訊きたいです。てる子さんとこに行きましょう」




