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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
12/272

12・(火)5月22日

          12(火)5月22日



 夜の演奏にはまだ間があったが、ちょうど尾崎の『ドーナツショップ』を聴いていたところで、夕陽が見たくなった僕は荷物をまとめて浜屋というデパートの屋上遊園地へ向かった。他に夕陽の見える高層ビルが思いつかなかったからだ。


 屋上遊園地にはたこ焼き屋と大判焼きの店が並び、小さなメリーゴーラウンドでは子供がひとりだけ嬉しそうにはしゃいでいた。親子連ればかりの屋上に、僕は似つかわしくない。


 くわえ煙草で鉄柵に向かい、西へと沈む夕日を見つめた。もちろんウォークマンから流れるのは『ドーナツショップ』だ。その頃、ことあるごとにドーナツ屋へ向かってアメリカンコーヒーをお代わりしていたのはそんな理由だ。


 山の端へ夕陽が落ちたのは七時過ぎで、僕はそのまま思案橋へ向かう。僕はすっかり街の子になってしまっていた。


 思案橋電停前には会社帰りの人波が多く、多くの人は路面電車に揺られて海の方へ向かっていた。僕はそれを横目に横断歩道を渡り、定位置へと場所を取る。その一連の作業に、もう迷いはない。


 麗美からもらった椅子を立て、譜面台を立て、ギターを取り出し、五分かかってチューニングを終え、譜面を取り出す。道ゆく人は、物珍しそうに眺める人と無視するかのような人に分かれる。どちらであっても、僕は構わない。


 来る途中に買った缶コーヒーはやがて吸い殻入れになる。それを見越して、僕は中身を少し残しておく。大量に残しておくと間違えて飲んでしまいそうになるから注意が必要だ。バカな話だが、演奏に夢中になっているとたまにやってしまう。


 今日の一曲目はとうに決めている。僕はギターの鳴りを確かめて、買いたてのピックの調子を確かめ、息を整えて『ドーナツショップ』を唄う。


 ワンコーラスを唄い終えると、人並みに少し変化があった。どこかのOLがふたりで立ち止まった。


 僕はそれに構わずツーコーラス目を唄い始める。するとOLは信号待ちだったようで横断歩道を渡り始めた。そうそう上手くいきはしないと曲を続けていると、その代わりに麗美が現れた。今日はポニーテールを結ばず、肩までの髪に黄色いキャップを被っている。


 僕は最後のパートへ入っていたが、彼女がジッと見ているので演奏だけを回転させてエンディングにした。


「その曲、好きなんやね」


 彼女は曲が終わるとギターケースへ近付いてきた。そこへ置くのはやはりバドワイザーだ。


「今度テープ貸すよ。聴いて欲しか曲もあるし」


 僕はビールを開けてひと口喉に流す。


「うん。そのうちね。でもあたし、尾崎よりナオミ君の歌がよかなあ」


 何の衒いもなく言われると、こちらが恥ずかしい。


「で、ブルハはいつやると?」


「もうちょっと暗くなってからの方がやりやすいけど――」


「いいよ。あとでまた来る。頑張ってね」


 そして彼女はどこへ行くのか、小鹿のように跳ねてゆく後姿を見つめ、バドワイザーを飲みながら不意に不安になった。心細い、と置き換えてもよかった。


 サラリーマンの集団から十個入りのひとくち豚まんを差し入れてもらったところで、三千円と小銭が五百円ほどあった。時刻は十時前で、人の流れはやむ気配がなかった。


「お兄ちゃん。最近、頑張っとるね」


 やって来たのは真っ白なスーツのリーゼントの男性で、


「メシでも食わんね」


 と、千円札を入れてくれた。紙幣を入れてくれる人は大概そういう感じで、歌を聴いてくれた人はなぜか小銭が多かった。とはいえリーゼントの兄さんもこの数日の僕を見てくれていたのだろう。それを思うとありがたさだけが胸に残った。


 そんな気持ちを胸に唄っていると、横断歩道の向こうから彼女が跳ねてきた。


「うわあ、稼いだね。いち、に、さん、し……」


 無邪気に紙幣を数える彼女は手にバドワイザーを持ち、なぜか化粧が濃くなっていた。


「お代わり、買うてきたけん」


 言いながらバドワイザーをギターケースに置いた。


「今日も家に来るやろ」二本目のビールを手にした僕に、彼女は平然と言ってのける。「あげんとこ、落ち着いて眠れんやろ」


 自分で紹介した割に「あんなところ」とは言い方がきつかった。


 それでも、


「麗美がいいなら……」


「そ? じゃあ決まり。あと二時間くらい頑張ろー、おー」


 それから彼女は煙草をくわえるとガードレールに腰かけて僕の歌を聴いていた。変わり映えのしない十曲のレパートリーを、何度でも聴きたがった。


「じゃあ次、まだ練習曲やけど――」


 僕が『リンダリンダ』のイントロを唄い始めると、やはり彼女は跳ねあがって喜んだ。それを輪の中心にして、何ごとかと人垣が出来た。有名ミュージシャンだとでも思ったのか、あちこちで会話が始まる。


 僕はといえばそれどころではなく、歌詞を飛ばさないように、コードを間違えないように唄うだけだった。やがて歌は終盤へ差しかかり、リンダリンダの繰り返しで幕を閉じた。あちこちから拍手が届けられ、皆、次々に紙幣を投げ入れてくれた。午後の十一時四十分だった。


「お疲れ、頑張ったね」


 麗美がギターケースに近付き、また紙幣を数え始める。そして察しがいいのか、


「今日は取らんよ。こないだはパチンコで負けてすっからかんやったけんさ」


 軽く舌を出して笑った。少しでも彼女を疑った身としては申し訳なく、


「豚まんもらった。あとで食べよ」


 そのくらいしか言えることはなかった。収支は、紙幣で九千円と小銭で二千三百十一円、路上で初めて大台を超えた。



「んー、グラッチェ。ここの豚まんって皮に旨味があってよかよね。モモタロの方って噛みごたえなかろ?」


 麗美はもらった豚まんに満足らしく、ソファーに胡坐をかいて座っている。


 僕はシャワーを浴びて戻ったところだった。慣れというか何というか、トランクス姿で髪を拭いていた。


「今度スウェット買おうか?」


 と言う麗美に、


「いいよ。荷物になる」


 そう返すと、


「ここに置いとけばよかたい。別に、じゃまにならんし」


 そう言ってまたひとくち豚まんを酢醤油に浸して口へ放った。肉まんを酢醤油で食べるのは九州の文化だ。コンビニでもついてくる。それはそうと、


「俺の豚まんは……」


 Tシャツを着てリビングに戻ると、残り一個の豚まんが彼女の手の中にあった。


「あ、ごめん。半分こしよか」


「……いや、いい」


 いくら小さめサイズの豚まんでも三つは残しておいてくれると思っていた。見た目は細いが意外と食うのだと覚えておこう。そういえばリンガーハットでも「ちゃんぽん追加しようかな」と呟いていた気がする。


「明日、何時?」


 化粧を落とし、シャワーを浴び、歯みがきの途中でリビングにやって来た彼女がそんなことを訊ねる。


「あそこのオバさん怖いからな……六時くらいには行っとこうかな」


「早っ。昼の間、なんしよると」


「昼寝」


 実際、他にすることはない。


「じゃあ、もうちょいおってよ。あたしも暇やけん」


 今こそタイミングだと思い、


「麗美って、昼間なんしよると」


 そう訊ねてみた。


「別に。夜のバイトしかしてないし」


 その言葉には僕も疑念を抱き、


「ウソやん。今日もずっと――」


「ずっとじゃないやろ。二時間おらんかったよ」


「でも二時間って……」


 夜の街にまだまだ不慣れな僕は、真剣な顔を作ってもう一度訊ねた。すると、


「パーティーコンパニオン。時給一万円で二時間。アーケード越えて向こうにお茶屋さんのあるけんね。そこで週二回くらいバイトしとる。衣装も借り物でね」


 日給二万で週二回と言うことはハンバーガーショップ週七日フルでも太刀打ち出来ない時給だ。つくづく世の中は女向けに出来ている。


 そんな胸の内を読んだか、


「でも、アフターに誘うしつこかオヤジとかビール継ぐときにお尻触ってくるエロオヤジとかおるけんね。楽な商売じゃなかよ」


 そう言うと彼女は洗面所へ戻って大きなうがいをしていた。


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