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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
118/272

41・(土)3月23日

          41(土)3月23日


「ビックリした?」


 彼女は懐かしい顔で語りかけてきた。


「ビックリも何も……」


 それ以上は言葉が出なかった。すっかり化粧を落とし、言うなればあの頃のままの彼女が戻ったようだった。


「ナオミちゃん、熱燗でよかとかね。そっちのお嬢さんは」


「あたし、レモンハイください」


「はいはい」


 ダウンコートを脱いだ薄いセーターは、華奢な彼女の身体をよりいっそう細く見せる。


「ナオミ君、ここは何が美味しかと?」


「煮込みとか、ポテトサラダ――って、他に言うことあるだろ。岡崎さんも心配してたぞ」


「うん。今日のライブ聞き逃したね。残念。せっかく事務所に電話してスケジュールば訊いたとに」


 そこまでするかと思いつつ、


「とにかくこれ飲んだら帰れよ。岡崎さんには黙ってるから」


「ふふっ。そうやね。また月曜に会えるかな」


 ラジャマンダラのことを言っているのだろうか。


「岡崎さんを騙すようなことするなよ。あの人、実直な人だよ」


「どうしてそう思う?」


「ここで一度話した」


「ここで? あの人が? あはははは!」


 憚ることのない麗美の笑いが店内に響く。


「はい、レモンハイと熱燗。今日のお酌は彼女でよかたいね」


 すると麗美がクスリと笑い、


「だってさ。はい、どうぞ」


 彼女が猪口に酒を注ぐ。


 これは雰囲気に負けている。長崎駅での別れはなんだったんだと、僕は今一度自分の気持ちを整理しなければならなかった。


 本日の御通しは牡蠣バターだ。バターの風味にほどよくダシが絡んだ牡蠣は美味かった。


「なんで飛び出したんだ」


「別に。普通にしてるだけ。言うたろ?あたしはあの人のお人形さん。連れて行かれた先でニコニコしとかんといけんと。でもそれ以外は自由にしたか」


「それは麗美の勘違いだ。あの人はそんな人じゃない」


「ふーん。やっぱりナオミ君もお金には弱かとやね」


「そういう意味じゃない! あの人もあの人なりに悩んでる!」


「何で分かると?」


「そこは男同士の話だ。口には出来ない」


「ナオミ君……変わった」


 寂しげな顔を見せ、彼女がレモンハイを口にする。


「成長したんだよ。麗美も今の生活に合わせて成長しなきゃやってけないだろ」


「ナオミ君には那由多さんのおるもん。私には思い出しかない」


「歳が離れてるから分かり合えないってことはないって。俺も実際、最初は傲慢な人かなって誤解してたけど、大学時代の片思いの話や、麗美のこと――」


「私のこと、なんて?」


「いや、あとは本人同士で確かめてくれ。とにかく逃げてるのは麗美の方なんだから」


「私は昔、家族から逃げた人をかくまって、恋して、一緒に暮らしてました。逃げるのが悪かこととは思ってなかったから。それが今、私はその人に『逃げるな』って言われよる……」


 泣き出した麗美を隣の客が揶揄する。


「お兄ちゃん、女の子ば泣かしちゃいけんよ」


 黙ってろ、と思うも、口には出せない。


「とにかく今日は家に帰るんだぞ。最悪、岡崎さんに問い詰められたら俺と一緒だったって言っていいから」


「ホントに……?」


「ああ。もう、後ろ指差される関係じゃないんだし。ウソつくよりマシだ」


 言っていると現れたのはナオさんだ。


「やっほー、あ、ナオミちゃんおった! 今日はなんば唄うてもらおうかね」


 言いつつオジさんとの間に割り込んでくる。


「私、帰るね……」


 そう言ったのは麗美で、壁にかけた赤いダウンを手に取った。


「お勘定置いてくけん。ナオミ君、ありがとう」


 カウンターをすり抜けてゆく彼女に追いつけず、僕は店の中から彼女を見送った。


「今の子、可愛かったねえ。何ちゃん?」


 ナオさんがビアグラスを持ちあげたので、何もめでたくない乾杯をした。


「ああ、昔の彼女が結婚する訳たいね」


「ナオさん、声大きいですって」


 今後のしがらみのない相手とならば話せるだろうかと、つい口が滑ったのが今の僕だ。


「でもナオミちゃんには新しか彼女がおる訳やろ? じゃあにっちもさっちもいかんたい。彼女の幸せば祈って、彼女だって身を引くしかないやろう。違う?」


 何も違いはしない。ナオさんの言う通りだ。そして僕もそれを望んでいる。


「唯一問題は、彼女の望まない結婚ってことです」


「今どき恋愛結婚も大変けどねえ。結婚したら男って変わるやろ? ならいっそ親の決めた仲同志で理解し合いながら愛情ば深めていくっていうともよかとじゃ?」


 さすが年の功。言うことが違う。


「ナオさんは今、つき合ってる人は?」


「え? ウチ? おらんよそげんもん。ナオミ君が立候補してくれたら分からんけど」


「いえ、そういうのいいですから」


「ナオミ君の彼女ってよさそう。朝は穏やかなギターで目を覚まし、昼にはうららかな日差しの中で――」


「そういうの、やりませんからね。煙草臭い部屋で作詞ノート開いてビール飲みながらうなってるのが現実ですから」


「やーん、ウチの夢、いっこ壊れたー」


 そういえば作詞途中だった歌詞はどうなったろう。午前三時の、で始まる歌詞だ。


「てる子さん。バーボンウイスキーってありますか」


「バーボン? ああ、前に出張の誰かが入れたままのがあるよ。アーリーなんとかって言うお酒やけど。もう一年半前やけん流してよかよ」


「じゃあ一杯ください。ロックで」


 ナオさんは「見てみたい」と言うので譜面を読書させている。


「はい、バーボンのロックね」


「ありがとうございます」


 僕がバーボンを舐めていると、タイトルが先に決まった。『Early Times Ballad』だ。


「ナオミちゃーん。尾崎の歌詞のあんまりなかー」


「ああ、尾崎の場合はほとんど覚えてるんですよ」


「なるほど。じゃあさじゃあさ、初めて覚えた尾崎ば唄うて」


 僕はてる子さんとお客さんに断ってギターを出す。


「じゃあ、『路上のルール』で」


「きゃあ! それ好き!」


 ギターを構ると、


「やあーん、よかあ。やっぱり一家に一台欲しかあ」


 ありがたい言葉をいただき、がんにゃライブは終了した。


 部屋に戻ると二時前で、ノートを開くとヒーターの温まる間もなくペンを取った。


 ――午前三時のアスファルト 寝ぼけまなこで転がった

 ――空のボトルが呟くさ 夢が終わったと

 ――空き箱並べたこの街を明日 誰かがほら飛び出してまた振り向く

 ――明日はすぐそこにあるけど 夜を忘れられないよ

 ――朝はもうそこにあるけど 夜を唄わせておくれよ


 並んだ文字に満足して、着替えもせず布団へと転んだ。明後日はオープンマイクだ。どんな人が来るのかと思えば楽しみでもあり、少しばかりの不安もあった。


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